野村克也、成功と失敗に彩られた84年間の軌跡 最も輝いたのは南海ホークスの時代だった

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鶴岡は球団の期待以上の指導者になった。終戦直後は球界に野球賭博が横行し、八百長の噂が絶えなかったが、鶴岡はチーム内の疑惑の選手を一掃した。そして俊足の選手をそろえて「100万ドルの内野陣」を作り、南海を巨人と覇権を争う強豪チームに育て上げた。

プロ野球がセ・パ2リーグに分裂すると、三原脩監督率いる西鉄が台頭した。「スピードの南海」に対して西鉄は中西太、豊田泰光、大下弘などの「パワー」で対抗した。限界を感じた鶴岡監督は、「100万ドルの内野陣」を解体し、大型打者による強力打線を作ろうとした。いわゆる「400フィート打線」だ。

野村克也はまさにこの時期に南海に入団したのだ。鶴岡監督は大学野球から蔭山和夫(早大)、大沢昌芳(のち啓二、立大)、長谷川繁雄(法大)、穴吹義雄(中大)などのスター選手を獲得。打線の強化に努めたが、同時に、テストで入団した無名の選手にもチャンスを与えた。岡本伊三美、森下正夫(整鎮)、広瀬叔功、そして野村克也もその1人だ。

鶴岡はこうした二軍からはい上がった選手たちと、エリート選手を競わせることで、人材の錬磨を図ったのだ。興味深いことに結果的にはエリートよりもノンブランドの選手のほうが成功している。鶴岡は無名の人材の資質を見抜く慧眼(けいがん)の持ち主だったのだ。

鶴岡監督の下で養われた野村克也の野球脳

南海は巨人などの人気チームと派手な選手の争奪戦を繰り広げたが、親会社の南海電鉄は大阪の一私鉄だ。資金的には限界がある。立大の長嶋茂雄、法政二高の柴田勲など、一度は南海に入団を約束しながら巨人に上前をはねられた選手もいる。エリート主義だけでは万全の補強ができなかったのだ。鶴岡が無名の人材を発掘したのは、南海の台所事情もあったのだ。

「100万ドルの内野陣」から「400フィート打線」への陣容の転換、エリートとノンブランドの人材の併用。鶴岡一人にはつねに明確な「方針」があり、それに基づいてチームの改革を断行していった。

従来の監督は、いわゆる人間力でチームを牽引したが、鶴岡はマネジメントの才があった。早くからMLBの戦術やトレーニングを取り入れた。また、新聞記者上がりの尾張久次を先乗りスコアラーとして起用するなど、情報戦の先駆けでもあった。その著書を読めば方針はつねに明確で理論的な人物だったことがわかる。

鶴岡は球団から絶大な信頼があり、監督だけでなく今で言う「GM」に近い権限を与えられていた。大阪で試合が終わってから夜行列車で東京に向かい、早朝に目当ての大学野球の選手の家を訪問することさえあった。抱えたボストンバッグには札束がうなっていたという。

野村はこの鶴岡のもとで、スタッフが集めたデータを分析する役割を果たしていた。のちの「ID野球」につながる野村の「野球脳」は、鶴岡監督のもとで養われたのだ。

鶴岡は、監督として史上最多の1773勝を挙げている。勝率.609も史上1位だ。NPB史上最高の監督と言ってよいだろう。

戦後初の3冠王に輝き、パ・リーグ最優秀選手となり表彰される野村克也捕手(南海)1965年(写真:時事通信)

野村克也は、その鶴岡一人が生んだ最高傑作だといってよい。

戦後初の三冠王、MVP5回、本塁打王9回、打点王7回、首位打者1回、ベストナイン19回に輝く。セ・リーグの王貞治とならぶパ・リーグの最強打者だ。しかも野村は野手で最も激職とされる捕手を26年間続けながら、この記録を打ち立てたのだ。まさに空前絶後と言えるだろう。

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