3月21日、筆者は東京ドーム右翼2階席で眼下のイチローを見つめていた。
オリックス・ブルーウェーブ時代の1994年、シーズン210安打という破天荒な記録でスターダムに躍り出てから、イチローはすべての野球ファンにとって、つねに話題の中心にいる選手となった。
イチローのプロ野球選手としてのキャリアは28年の長きに及ぶ。
この間にイチローは、野球ファンのライフスタイルにも大きな影響を与えてきた。ここでは「イチローが変えたもの」について考えたい。
パ・リーグ初の「国民的英雄」に
1994年の210安打は、130試合制で樹立されたものだ。以後、5人の選手が200安打以上を打ったが、すべて143、144試合制でのもの。210安打は、埼玉西武ライオンズの秋山翔吾の216安打、阪神タイガースのマット・マートンの214安打に続き、史上3位だが、試合数を考えれば別格と言えるだろう。
イチローは数字を残しただけではない、シャープな打撃、俊敏な走塁、超人的な強肩でも観衆を驚かせた。そしてそれ以上に、遠目でもはっきりと区別ができるしなやかで美しい身のこなし、そして求道者のようなストイックな言動などで、カリスマ的な存在となり、多くのファンを集めた。
これまでもパ・リーグは多くの人気者を輩出してきた。しかしその人気は、主として関西のローカル限定であることが多かった。プロ野球のスター選手と言えば、巨人のON(王・長嶋)に代表されるセ・リーグの選手が中心だった。またパ・リーグで実績を積んで人気が上がっても、セ・リーグに移籍する選手が数多くいた。
「ONが太陽を浴びて咲くひまわりだとすれば、俺は夜に咲く月見草」と野村克也は自嘲気味に口にしたが、それは「実力があっても注目されないパ・リーグ選手」の境遇を象徴していた。
そんな中で、イチローは、はじめて「全国区」の人気を博したパ・リーグの選手だった。パ・リーグの、しかも関西のチームの選手が、全国的なスターになったのだ。
イチローが210安打を打った1994年、オリックスの観客動員は、前年の118.6万人から140.7万人へと急増。さらに1995年は165.8万人へと伸びた。
調査会社による「最も好きなスポーツ選手」に、イチローの名前が出たのは1995年が最初、このとき5位、1位は長嶋茂雄だったが、翌1996年には1位となり、以後長期にわたって1位に座る。イチローはパ・リーグが生んだ、初めての「国民的英雄」なのだ。
イチローの登場は、長期的に見ればパ・リーグのステータス向上にも寄与したはずだ。
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