野村克也、成功と失敗に彩られた84年間の軌跡 最も輝いたのは南海ホークスの時代だった

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ただし、鶴岡一人は野村を直接の後継者とは見なしていなかったようだ。

鶴岡は1965年オフに蔭山和夫に監督の座を譲ると発表したが、発表の4日後に蔭山が急死。やむなく鶴岡はさらに3年監督を続け、退任した。後任は野村ではなく「100万ドルの内野陣」の中心選手だった飯田徳治だった。しかし飯田は監督としては成功せず、1970年に35歳の野村克也がプレイングマネジャーに就任した。

野村克也は後年、監督としても偉大な実績を上げるが、南海の監督としては成功したとは言いがたい。野村の野球理論は、鶴岡の理論を下敷きにし、それを精緻化したものだが、南海時代はそれを十分に生かすことができなかった。

野村に鶴岡ほどの人望がなかったという見方もあるが、それよりも1965年にドラフト制度が導入されたことが大きいだろう。

これによって巨人や南海など、金に飽かせて選手を獲得してきた有力球団の人材確保は厳しくなった。長池徳二は徳島、撫養高校時代に鶴岡に入団を約束し、鶴岡の母校である法政大に進んだが、ドラフトでライバルの阪急に指名されて入団し、阪急黄金時代の主力打者になった。人材獲得がままならない時代に入ったのだ。

また野村は鶴岡のようなGM的な権限は与えられなかった。そして球団そのものが資金的に苦しくなったために、南海は強豪チームではなくなった。野村克也は8シーズン、プレイングマネジャーを務めたが、優勝は前後期制の1973年の前期だけだった。

1977年、のちの夫人になる野村沙知代が関わる公私混同問題で、野村はチームを追われる。このときは、野村によって引き立てられた江夏豊や柏原純一は「行動を共にする」と訴え、一時ホテルに籠城した。

野村はロッテ、西武でなおも3シーズン現役生活を続行して引退。

引退後は、9年の長きにわたって野球解説者を務めた。この時期に野村は変わったといえるだろう。

選手時代の野村は陰気で、インタビューの受け答えも不愛想だった。しかし解説者になってからは訥弁ながらも自分の言葉で野球を語った。また「ノムラスコープ」などこれまでにない手法で野球解説をした。

従来の野球解説は「根性論」や「精神論」が中心だったが、野村は自らがベンチで選手に説いていた作戦や戦術を、視聴者にわかりやすく話した。これは日本のプロ野球ファンを啓蒙した。野球には、理論に基づく「頭脳ゲーム」の一面があることをファンに知らしめたのだ。

「ノムさんほどの知識の持ち主が、現場から呼ばれることもなくテレビに出ているのは、球界の損失だ」

盟友と言われた巨人V9捕手だった森昌彦はこう訴えたが、1990年になってようやく野村はヤクルトスワローズの監督になるのだ。

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