日本民藝館の来歴
渋谷駅から井の頭線に乗って2駅目。東京大学の教養課程キャンパスのある駒場東大前駅で下りてしばらく歩くと、閑静な住宅街の一画に、通りを挟んで蔵のような2棟の建築が現れる。地方の豪農の館のような建物は、まさに民藝風といった佇まい。向かい合って建っているのは、日本民藝館(本館)と、その開設者・柳宗悦(むねよし)の自宅(現在は日本民藝館西館)だ。
そもそも「民藝」という言葉と概念を創り広めたのが、柳宗悦が中心になって進めた民藝運動だった。それまで、価値や、美しさが見出されていなかった日本各地や海外諸国の陶器や籠、漆器、織物などの生活雑器のなかに「美」を見出し、「民藝」と称したのだ。
1925年、柳と、友人である陶芸家の河井寛次郎、濱田庄司の3人が旅の途中で、「民藝」という言葉を考え出した。その翌年に民藝品のための美術館を作る構想を「日本民藝美術館設立趣意書」として発表。倉敷紡績社長の大原孫三郎が10万円という当時では大変な金額を寄付し、構想は現実化していく。
その後、この駒場の地に日本民藝館が開館したのは1936(昭和11)年。柳が47歳のときのことだった。
昭和初年には、東京帝国大学の農学部が本郷に移転し、それと入れ替えに本郷にあった第一高等学校(現在の東京大学の教養課程にあたる)が駒場の現在地に。また、日本民藝館の近くには、やはり本郷にあった前田侯爵邸も移転し、1929年に洋館の邸宅が竣工している(『駒場公園に建つ90年前の「華族の邸宅」を探訪』)。
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