飛鳥山公園に今も残る渋沢栄一ゆかりの名建築 晩香盧と青淵文庫内部を360度カメラで撮影

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渋沢栄一ゆかりの地を訪ねた(撮影:梅谷秀司)
東京23区だけでも無数にある、名建築の数々。それらを360度カメラで撮影し、建築の持つストーリーとともに紹介する本連載。第15回の今回は、北区にある「晩香盧」と「青淵文庫」を訪れた。なお、外部配信先でお読みの場合、360度画像を閲覧できない場合があるので、その際は東洋経済オンライン内でお読みいただきたい。(文中敬称略)

今年4月、2024年度に刷新される新紙幣の1万円札に渋沢栄一の肖像が採用されることが発表され、世はあっという間に渋沢栄一ブームとなった。

故郷である埼玉県深谷市や、日本橋の日本銀行近くにある渋沢の銅像はテレビニュースなどで紹介され、物見遊山の人でにぎわったようだが、このほかにも東京23区内には、知る人ぞ知る、渋沢関連の名建築が2軒存在している。しかもどちらも国の重要文化財に指定されているという大変見応えのあるものだ。

飛鳥山公園内にある2つの建物

かつて渋沢の本邸のあった北区王子の飛鳥山公園内にあるその2つの建物とは、晩香盧(ばんこうろ)と青淵文庫(せいえんぶんこ)と名付けられた比較的小規模な建築。渋沢の77歳の喜寿のお祝いに贈呈された「晩香盧」、そして80歳の傘寿と子爵昇格のお祝いに贈呈された「青淵文庫」は、双方ともが大正時代に建設されている。

晩香盧は木造平屋の洋風茶屋、青淵文庫は鉄筋コンクリートとレンガ造りの2階建て。『論語』関係の書籍などを収める図書館として建てられたものだが、どちらも主に渋沢の接客の場として用いられていた。

日本資本主義の父と言われ、約500社にのぼる株式会社、銀行などの設立、経営に関わった渋沢は、江戸後期の天保年間である1840年に生まれ、幕末、明治、大正という変革の時代を生き抜いて、1931(昭和6)年に91歳で亡くなった。

埼玉県深谷の農業と藍の商売を家業とする家に生まれた渋沢は、最後の将軍となった徳川慶喜に仕え、幕臣としてパリ万博や欧州を視察。維新後には大蔵省に出仕し、やがて実業家として近代日本の礎を築いていくようになる。

その渋沢の邸宅は深川福住町(江東区)にあったが、1879(明治12)年に王子飛鳥山に賓客接待用の別邸・曖依村荘(あいいそんそう)を構える。そして1901(明治34)年には飛鳥山に移り住み、こちらを本邸とする。その屋敷は、現在の飛鳥山公園の南側に位置し、広大な庭園、和館、洋館、茶室、文庫などで構成された大邸宅で、渋沢はここに、91歳で大往生を遂げるまで住み続けた。

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