特捜の看板には無理がある--『検察の正義』を書いた郷原信郎氏(弁護士、名城大学教授)に聞く

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--政治資金が一つのターゲットになっています。

政治資金の問題は、経済司法としても同じだが、個別の悪党を退治する話でなくて、一般社会、政治、経済に影響があることだから、ルールに基づいてきちんと適用しないといけない。それもそのルールの中身をまず明らかにしないと。

検察がルールを自分たちの考えでどうにでもできるとなると、政治と検察の関係では、検察が政治の上位にくることになる。基本的に政治資金規正法は政治の世界のルールの問題であり、自主的にやっていくのが望ましい。それでどうにもならないときに刑罰が出てくる形になってくる。ところが、いまの検察の考え方はそうではない。旧来的な悪党退治のために使える武器はなんでも使おうとする。

--まず悪党退治ではない?

いまの世の中、単純な善と悪との対立構図などない。はっきりしているのは、単純な人殺しとか泥棒といった伝統的な犯罪ぐらいだ。簡単に善悪は判断できないとしたら、実態に迫っていかないと事件の摘発とか処罰はできない。それは検察の閉じた組織では難しい。どうしても自分たちの考え方に凝り固まってしまう。それでは、本当の意味で社会の要請に応えることができない。

--経済司法の役割も増しています。

反社会的、反道徳的な犯罪についての検察官の仕事は方向性が定まっている。犯人を捕まえたら起訴できるだけの証拠を集め、証拠が固まったら起訴する。そして公判で有罪に持ち込む。その方向性は直線的だ。そこには価値判断の要素はほとんどない。

ところが、検察が手がけることを求められている事件は、必ずしも単純な価値観で割り切れるようなものばかりではなくなっている。たとえば独占禁止法違反であり金融商品取引法違反。そういう経済犯罪は必ずしも悪党かどうかではなく、経済社会のルールを当てはめて、ルール違反であればその程度に応じて処罰する。その制裁がそれなりに周りに効果を及ぼす。

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