「ジョーカー」に見えたお笑い芸人の格差社会 なぜ無名芸人ほど残酷な扱いをされるのか?
映画『ジョーカー』が世界的な大ヒットを記録している。ヴェネツィア国際映画祭ではアメコミ映画として初の金獅子賞を受賞しており、アカデミー賞では過去最多の16部門ノミネートを果たした。『バットマン』の悪役として知られるジョーカーが、いかにして悪のカリスマとなったのか。この映画ではその前史が描かれている。
本作はすでに識者によってさまざまな切り口で語られているが、私はこれを一種の「芸人映画」として楽しんだ。芸人志望の男を主人公に据えて、笑いとは何か、人を笑わせるとはどういうことなのか、笑われるのと笑わせるのはどう違うのかなど、笑いの本質を掘り下げるような作品だと思ったのだ。本稿ではそのような視点から、作品の内容をひも解いていきたい。
主人公の夢は「プロのコメディアン」
【以下、映画「ジョーカー」のネタバレを含みます】
主人公は、ピエロの姿で大道芸人として働くアーサー・フレック。病気の母の介護をしながら暮らしている純粋でまじめな好青年だ。彼はスタンダップ・コメディアンになることを目指して、日々ノートにネタを書き留めていた。だが、「ところ構わず発作的に笑ってしまう」という病気を抱えているせいで、他人からはいつも疎まれていて、芸人としてもさえない日々を送っていた。
彼の心の支えは母親だけ。「どんなときも笑顔で人々を楽しませなさい」という母の教えを受けて、アーサーはコメディアンを目指していたのだ。
これは私の推測だが、彼が人を笑わせる仕事を選んだ理由は、「笑い」には希望があると感じたからではないか。発作的に笑ってしまう彼にとって、他人と関わる社会生活は厳しくつらいものだろう。人前で突然笑い出したりすれば、驚かれたり、気味悪がられたり、怒られたり、嫌われたりするだろう。
そんな他人の冷たい反応の中には、「笑い」も含まれていたはずだ。その多くは困惑の苦笑いだったり、嘲笑だったりするのだろうが、それでも自分の発作が「笑い」というポジティブな反応を引き出したこと自体が、何も与えられてこなかった彼の心を幾分か慰めたのだろう。すがるものが何もない日々を送ってきたアーサーは、目の前の「笑い」に希望を見いだした。
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