なぜ東大生の3人に1人以上が男子校出身なのか 2.2%の「超少数派」が最難関大学を寡占
男女共同参画社会において重要なのは色恋のテクニックを磨くことではなく、何らかの課題に対して男女の垣根を越えてそれぞれの特性を提供しながら取り組むことである。また、同世代の異性が将来についてどんな期待や不安を抱いているのかを知る機会もあればなおよい。
逆に共学校で四六時中異性とともに生活している子どもたちは、旧来的な「男らしさ」や「女らしさ」に無意識的にとらわれていないかをつねに自覚する必要があるし、性差を無視した画一的な教授法のために余計な苦労を課されていないか、男女別学校よりもさらに細かく個別に気を配られるべきだろう。
男女別学校はなくてもいいが、あってもいい
そのうえで、実社会におけるジェンダー・ギャップの解消に対しては、男子校・女子校でも共学校でも、人権教育とキャリア教育の両面から意識的に取り組むべきである。男女を一緒にしておけばいつの間にか克服できてしまうような問題ではないことはこれまでの社会を見れば明らかだからだ。
つまり、男子校・女子校・共学校のいずれであってもジェンダー・ギャップの解消につながる教育はできるし、個別の学びの最適化も実現できるはず。男女別学校の立場からアプローチするのか、共学校の立場からアプローチするのかという違いでしかない。
男女別学校であっても共学校であっても同じ教育成果が得られるというのであれば、男女別学校はなくてもいいという結論にもなるし、あってもいいという結論にもなる。判断の基準は、「平等の観点から、性別によって入れない学校があるのはおかしい」というロジックを採用するか、「男子校・女子校・共学校の中から自分に合った環境を選べることが本当の平等だ」というロジックを採用するかである。
ただし、後者のロジックを採用するのならその前に、そもそも「同性だけで学びたい」という希望が権利として認められるかどうかという問題についても検討が必要になるだろう。
その点においては、性別よりも個人差が大きいことを大前提としながら、集団としてみた場合、女子だけの集団と男子だけの集団にはやはり振る舞いの違いがあり、2つの性を別々にした教育環境を用意することには一定の合理性があるのではないかというのが前述2つの拙著における私の主張である。
「男子だから男子校」「女子だから女子校」とか「異性コミュニケーションが大事だから共学」などと短絡的に考えるのではなく、わが子の個性を見極めて、本人とも十分話し合って進路を選んでほしい。
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