川端康成「雪国」が思考力を養うのに最適な理由 日本語を母語とする人の「落とし穴」

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変化の大きい現代では思考力が重要ですが、「考える」ことの落とし穴にも配慮していく必要があります(写真:ipopba/iStock)

変化の大きい時代になり、どんな問題にも正解があるとする、いわゆる「正解主義」では、複雑な現実に太刀打ちできなくなってきました。そう実感している人も多いのではないでしょうか。

「答えのない時代」には、思考力がますます重要になります。模範解答を探し当てる力ではなく、自分だけのオリジナルな答えを導き出すことが重要になるのです。

では、オリジナルな答えを出す力を磨くには、どのようなトレーニングを積めばよいでしょうか?

「考える」ことの落とし穴

前回記事では、常識を疑う問題などをご紹介しましたが、今回は川端康成の『雪国』を題材に、日本語を母語とする人の「考える」ことの落とし穴について、みなさんと一緒に考えてみたいと思います。

Q:川端康成の『雪国』の冒頭部分、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」の主語は誰/何ですか。

解答は後ほどお伝えするとして、まずは、川端作品を多く翻訳したエドワード・G・サイデンステッカーによる、この箇所の英訳を見ていただきたいと思います。

The train came out of the long tunnel into the snow country.
(汽車は長いトンネルを抜けて、雪国へと着いた)

うまい訳だなあと感動しますが、日英バージョンを読んで「ん?」と思われた方もいるかもしれません。この文、日本語と英語とでは、「主語」が違うのです。

英語バージョンの主語は「汽車」(The train)です。汽車が長いトンネルを抜けて、その結果、汽車が雪国に着いた。非常に明快です。では、日本語の原文「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」はどうかというと、主語の「〜は(が)」にあたる部分がありません。じゃあ主語はいったい何なのでしょう。何が省略されているのでしょうか。

日本語はいろいろなものを省略しますが、主語はその典型です。いや、主語は「省略」ではなく、そもそも日本語に主語などという概念はないんだ、という研究者もいます。

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