川端康成「雪国」が思考力を養うのに最適な理由 日本語を母語とする人の「落とし穴」
例えば、「〜だと思われる」という表現が頭に浮かんだとします。ところでこれ、誰が思っているのでしょう。「思われる」と言うからには、主語をあえてぼかしたいのでしょうか。そのぼかしたい「誰か」とは誰でしょう。なぜぼかしたいのでしょう。
それとも、なんとなくすわりがよさそうだから「思われる」と言っているのですか。「すわりがよさそう」だと思うのはなぜでしょう。主語をぼかすことで何を手に入れているのでしょう。
主語・主体は何か、思考力を磨くことが必須
主語は誰なのか、主体となっているのは何なのか。それを意識することはグローバルにおけるコミュニケーションでも大事ですが、これからの社会で必要な思考力を磨くためにも必須です。
主体が誰だかよくわからないなと思ったら、試しに英語などの、主語のしっかりと使われている外国語に翻訳してみてください。文法なんか間違ったって構いません。「主語は誰・何なのか」をしっかり意識することが、思考を必ず先に進めてくれます。そしてどうか、画一的な考え方から自分を解放してあげてください。
よく、「日本は遅れている」という言い方をしますね。「どこそこの国は◯◯の取り組みがすばらしいが、日本は遅れている」といった類いです。
確かに進んでいる地点から見れば「遅れている」のだと思いますが、なぜこういう文脈になると「日本は遅れている」という表現ばかりが目立つのでしょうか。
別に、ナショナリズムを掲げたいわけではありません。私が違和感をおぼえるのは、「遅れている」以外の表現がほとんど見られないという点です。
なぜ「違う」という見方をしないのでしょうか。なぜ、進んでいる地点からだけでなく、出発点から見て「ここまで到達した、でもまだやるべきことはある」という考え方があまり見られないのでしょうか。
「遅れているからがんばろう」という考え方は大いにけっこうですが、ここにも、「答えは1つだけ」という日本独特の正解主義が潜んでいるように思えてなりません。
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