川端康成「雪国」が思考力を養うのに最適な理由 日本語を母語とする人の「落とし穴」

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一方の英語にも「省略」はあります。でも、英語の省略と日本語の省略の決定的な違いは何かというと、英語の省略は原則「すでに誰かが言った・書いたことを繰り返すのもなんだから省略する」というもので、日本語は「すでに言及されているかどうかは関係なく、文脈に応じて適宜省略」がルールです。

つまり、英語では何かが省略されていても、省略内容はすぐ見つけられます。ところが、日本語は違います。日本語の場合、省略するのはすでに言及されたものとは限らないので、想像したり、察したりしながら受け手側が「穴埋め」しなければならないのです。

でも、私たちは、よほどのことでもない限り、日本語のこういう穴埋め作業を「難しい」と感じることはありません。

あいまいさに気づかずに思考している危うさ

それどころか、「何が省略されているか」「何を穴埋めしているか」と意識することすらまれなのだと思います(というところから、日本語は、受け手が穴埋めすることでコミュニケーションが成立する「受信者責任」の言語と呼ばれ、一方、英語は、発信する側がすべて表現し尽くさないといけない「発信者責任」の言語といわれます)。

そして、ここに、日本語を母語とする人の「考える」ことの落とし穴があります。日本語を母語とする人が、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」と読んで「いったい誰が、何がトンネルを抜けたんだ! なんでこんなにあいまいなんだ!」と嘆くことはまずないと思います。

省略されていても、あいまいでも、そんなことは普通気にならないからです。でも、これは別の見方をすれば、あいまいさに気づかないまま思考を進めている、ということです。

そして、ここからがやっと解答です。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」の主語は、前半と後半で違います。前半、長いトンネルを抜けたのは「汽車」、あるいはその汽車に乗っている主人公(「島村」という男性)、あるいは「島村を乗せた汽車」と考えるのが妥当です。

しかし、後半の「雪国であった」に関しては、「汽車」も「島村」も主語にはなれません。「そうして着いたところは雪国であった」と解釈するのが妥当で、主語は「そうして着いたところ」などとなります(サイデンステッカー訳の主語がThe trainで統一されているのは、1つには、「そうして着いたところ」をあえて英語にすると野暮ったくなりますし、The trainで統一しても意味的には問題がなさそうだからだと思います)。

今の主語の説明を読んで、「言われてみたらそうだけど、今まで意識したこともなかったなあ」と思う方は多いのではないでしょうか。これはそのまま、「言われてみたらそうだけど、今まで、考えるときに使っている言葉があいまいだなんて意識したこともなかったなあ」という気持ちに通じるのではないかと思います。

あいまいな言葉はあいまいな思考しか生みません。「あいまいだ」とわかるときはよいのです。問題は、あいまいかどうかということが意識に上りすらしないときです。

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