キッチンから料理の匂いがするたびに、「気分がよくなれば、自分も皆の好きな料理を作ってあげる」などと、少なくとも「死を待つだけの人」ではなかった数々の言葉を残しました。
姉の人生の最終コーナーを伴走して感謝されたことは、姉との死別の哀しみを少しだけ和らげてくれたようにも思います。
在宅も病院も、受ける終末ケアは同じ
私のそのときの経験だけの感想ですが、毎日訪問してくださる看護師さんたちは皆さんベテランで優秀で、ケアは時間的にも内容的にも入院中より丁寧でした。10本ほどのペットボトルに湯を入れ、フタに穴をあけて簡易シャワーを作り、頭をかゆがる姉の髪をそのベッド上でシャンプーしてくださったときは、本当に感激しました。
週1度来てくださる主治医の先生とも毎日連絡を取らせていただき、先生にも、いつ電話をしてもよいことになっていました。入院時より心強かったです。
そのときの看護師長さんが、「死は細胞の働きが順番に止まっていくことで、何も怖いことではない」と説明してくださり、姪たちの意識が随分変わったことを覚えています。3カ月後、最後まで不安がっていた姪が、姉がたんを絡めて苦しみだしたとき、先生に往診をお願いする電話を掛けました。
先生は1時間後に駆け付けてくださいました(死亡時刻は先生が確認された時刻)。看護師さんに促され、看護師さんと一緒に家族で最期に姉をお風呂に入れたことなど、病院死より手厚い看取りができたのは、望外でした。臨終に医師が立ち会っているか否かは、さほど問題ではないという経験でした。
前述の書籍『死を生きた人びと』によると、病院死が8割を超えているそうです。そこには1日でも長生きしてほしいという家族の欲で、またはどうにでもなる些細な事情を優先して、患者を管だらけにして苦しめている事例も含まれていると思われます。
まだ訪問診療がない地域もあるそうですし、介護する人たちの事情も無視できず、一概に在宅のほうがよいと言うつもりはありません。
ただ、お兄様夫婦が漠然とした死への恐怖から自宅介護を渋っておられるようでしたら、ぜひ「大切なのは命の長さではなく、いかに命を使ったか」(日野原先生)や、「最後が近づくと医師も席を外し、家族だけで看取らせる」(『死を生きた人びと』より)意味について今一度話し合われ、お互いに悔いの少ない選択をされることをお勧めします。
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