――最初から今のスタイルを考えていたのですか。
夕刊紙のことを語ってもらうというスタイルは、「濃い人生相談」にしようと思っていたのを、「みのさんの番組のマネするな」と上層部の圧力で潰されたからです(笑)。ただ、出演者は自分の好きな人を選びたかった。そして、自分には絶対ない発想やモノの視点を持っている、「マイナーなジャンルのトップにいた人」を選びました。未開のジャンルをイチから切り開いた人だから、含蓄ある面白いことを言ってくれるし、人に伝わるだろうと。
そういう人を「集めてきた」というよりは、「集まってきた」という感じです。タイミングがよかったのと、人に恵まれただけで、ラッキー以外のなにものでもないですね。そうしたらキラ星のようなすごい人たちが集まってきました。真剣な相談でも全部「下ネタ」で返す岩井志麻子さんとか、鬼嫁なのに情に厚い北斗晶さんとか……。当時は絶対にコメンテーターをやらないと言っていた中村うさぎさんも、2年がかりの交渉で出演していただけるようになりました。
もともとは、営業部の不良社員でした
――もともと制作部志望だったのですか?
僕はもともとマスコミ志望でもなく、まったく興味関心がなかった。入社してすぐは、営業部に配属されていました。そこでははっきり言って「不良社員」でした(笑)。大学時代の野球部がとても厳しかったこともあり、社会に出たら「殴る」「蹴る」がないとわかって、なめちゃった。当時は何もしなくても怒られないし、給料は変わらない。営業部のときは基本的に「直行直帰」。出社したとしても、たいてい仮眠室でさぼっていました。部活に比べると、社会人生活はメリハリがなかったのが原因だと思います。
営業部から異動になった内勤のCM運行部では、当時のオフィスの最上階にあった卓球台に入り浸り。たぶんビルの中でいちばん卓球はうまかったと思います(笑)。残業ももちろんゼロで、午後6時のニュースを家で見て、夜になってから遊びに行くという生活でした。「やりがい」も感じず、転職しようかと本気で思っていた時期もあったくらいです。
だから、制作部に移動したときは、当時いた先輩との圧倒的な“才能”と“志”と“能力”の差に、「いちばん向いていない部署にきてしまった」と悩みましたね。僕は「オレのセンスで勝負してやるぜ」というのとは真逆な人間。「こういう企画がやりたい」という発想力もないし、カメラのアングルといった編集のこだわりもない。この世界で何を武器に生きていけばよいか、真剣に悩みました。ただ、今ではひとつ武器を見つけています。それは「声」。声だけは誰よりもでかい(笑)。だから、番組でもばんばんしゃべるし、誰よりも笑い声が通ります。
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