「空気を読まない」哲学が学校や企業を救う理由 日本の「道徳教育」はなぜイケてないのか
斎籐:僕は教育に関しては門外漢なので、大きなことは言えませんが、倫理を学ぶということは、決まりきった規範を身に付けることとはまったく違うし、哲学者の結論だけを知ることでもないわけですよね。
素人考えでいえば、哲学者によって道徳や倫理の考え方はかなり違っているし、その違いを通じて学べることも多いと思います。しかも現代は、さきほどのバイアスの話と重なりますが、人間はそれほど理性的な存在ではないことが科学的に説明されるようになってきました。すでにヒュームが「理性は情念の奴隷である」と言っていたけれど、現代はそれを科学的に裏付ける研究が積み重なっています。
とすると、これからは理性と情念、理性と感情のバランスをどうとっていくのかということも、道徳を議論するうえで見逃せないテーマになりうるのではないでしょうか。
「考える道筋」とは何か
古川:まさに、理性的な道徳と感情的な欲求との関係をどう考えるのかは哲学史上の大問題で、私の本でも中心的に取り上げたカントなんかは、圧倒的に理性優位の考え方ですね。あくまでも「理性で欲求をコントロールするのが人間だ。それができない人間は動物と同じだ」と言うわけです。
だけど、他方で、例えばベンサムは、「欲求の充足を求めることが人間の本性だ」という「功利主義」の考え方をベースに、人間と社会を考えていこうとする。そうかと思えば、ジョン・スチュアート・ミルは、「欲求というのは単に身体的なものだけではない。精神的な欲求の充足が大事なんだ」と言う。同じ功利主義でも、ベンサムとミルはまた全然違うわけですよね。
つまり、こういうふうに、「理性と欲求の関係をどう考えるか」という問題、もっとやさしく言えば「『こうすべきだ』という道徳的な命令と、『こうしたい』という自分の欲求との関係をどう考えますか」という、誰でも一度は直面するような問題について、実はそれは「哲学」の問題なんだということ。まずそこに気づかせてやって、そのうえで、カントの考え方はこう、ミルの考え方はこう、というふうに、哲学史上の代表的な、できれば対立する複数の考え方を教えてやる。それが、私が先ほど言った「考える道筋」を教えるということです。
斎籐:ベンサムやミルの「功利主義」って、高校倫理の教科書の中でもわりと大きく扱われていますよね。
功利主義は、語感から誤解を受けやすいし、カントも目の敵のようにしていたけれど、実はかなり手強い思想です。例えば人間はどうしても身内びいきになる。つまり身内には利他的な行動をとりやすいけれど、関係が遠いと利他性が発揮しづらくなります。手元にあるお金なり食料を、ちょっとお腹を減らしている身近な友人にあげるのか、遠くで飢えている人に渡すのか。普通はとくに考えることなく、友人に渡してしまうと思うんです。でも功利主義者は、はたしてそれでいいのか、と言うでしょう。
むろん功利主義にも弱点はあるでしょうけれど、カントと功利主義をあわせて考えることが大切なんでしょうね。
古川:そうですね。だから、功利主義にせよカント主義にせよ、ある特定の考えだけを教え込むのが「道徳」ではないわけです。「考え」ではなくて、「考え方」ですね。1つの「考え」だけを疑いもせず信じ込むのではなくて、複数の「考え方」ができるようになるということ。それが哲学であり、そのための教科として「道徳」や「倫理」があってほしいと思うんです。