「空気を読まない」哲学が学校や企業を救う理由 日本の「道徳教育」はなぜイケてないのか
斎籐:生き方を問い直すと同時に、自分の物の見方や考え方が一面的になっていないかということを吟味するきっかけにもなってほしいと思います。哲学者って、その時代のバイアスに敏感だったと思うんです。例えばベーコンの有名な「四つのイドラ」も、正しい知識の獲得を妨げるバイアスの話です。
現代では、脳科学や認知科学の方面からも、人間は自分たちが思っている以上にバイアスの罠にはまってしまうことが明らかになっています。トランプなんてバイアスの塊みたいな人でしょう。そういうなかで、哲学者がやってきたように、先入観や偏見に批判を差し向けることは、現代人にとってますます重要になっているように感じます。
理性と欲求を問うことこそ「道徳」教育
古川:「道徳」の教科化の話に戻りますけど、文科省の学習指導要領のなかに、教えるべき道徳の項目がいくつか定められているんですね。自由とは何かを筆頭に、自己と社会や国家との関わりをどう考えるかといった内容も含まれていて、それはきちんと教えるべきだと僕も考えています。
ところが、教科書を見てみると、そういう問題について論理的に考えてみようという内容ではなくて、何かおそろしくつまらない作り話のオンパレードなんですね。「花子さんはボランティアに参加してみました。地域の人たちがみんな笑顔になって、あたたかい気持ちになりました」みたいな(笑)。
そういう読み物教材を使った授業を見学することもあるんですが、たいてい生徒のほうも、とくに高学年になるほど、「これが正解なんでしょ?」ということを見透かして発言しています。「わがままと自由は違うと思います」「みんなのことを考えるのが本当の自由だと思います」なんてね。「お前、ホントにそう思ってんのか?」と、僕なんかはついツッコミたくなるんですが(笑)、授業ではたいてい、「みんな自分の考えが言えてよかったですね。終わり」となってしまう。これでは何の意味もないし、なんならむしろ有害でしかない。
だから、そうではなくて、「道徳」という教科は、自分の生き方を国家や社会との関わりのなかでどう考えていくのかということを、ある程度きちんと論理的に考える機会にしてほしい。そして、そのためには、「考え方」や「考える道筋」のようなものを、教師が教えてやらなければなりません。少なくとも中学生くらいになったら、デカルト、カント、ルソーあたりの近代思想のごく基本的な考え方の部分くらいは、「道徳」の授業できちんと教えるべきだと思うんです。
斎藤:古川さんは『大人の道徳』の中でも、いっそ教科名自体を「哲学」にしたほうがいいんじゃないかとも提案されていますね。
古川:そうですね。これは斎藤さんの最初のお話とも関わりますけど、結局、大学の哲学教育と高校の「倫理」がつながっていないのと同様に、高校の「倫理」と中学の「道徳」も全然別物になってしまっているんです。たぶん教わるほうも、「道徳」と「倫理」って、科目の名前はほとんど同じなのに、どうして中身がこんなに違うんだって、不思議に思うんじゃないでしょうか。だから、小中学校の「道徳」を高校の「倫理」の入門としてきちんと位置づけることで、ほかの教科と同じように、哲学教育をある程度体系的・系統的にやっていくべきだと思うんです。