スーパーで働きつつ寿司屋を開いた男の達観 猛烈な修業を経て生家の家業にたどり着いた

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祖父の思いつきではじめたすし屋さんだから、そもそもすし屋の家系ではないのだが、なぜかいとこ3人がすし屋になっているという。不思議とすしに縁がある人生なんだな、と思う。

「小学生の時は食べることが好きだったので調理師になりたいなとは思っていましたけど、おすし屋さんとは決めていなかったですね。ケーキが好きだからケーキ屋さんになろうかな~とかふわふわした夢でした。高校の時の進路相談で『将来はすし屋になります』と言いまして、それから就職しました」

高級店で修業することになった。ただ1年間、修業はしたものの、覚悟なく入ったこともあり、あまり身に付かないまま辞めてしまった。

修業時代は人間関係で苦労することも

「そこからはお店を転々としました。いとこのおすし屋でも働きましたし、居酒屋の厨房にも入りました。

30歳になる頃に『これじゃいかん』と思いまして、職安でおすし屋さんの求人を探しました」

そして心斎橋前にある老舗店に入った。180年以上続く、総本山的なお店だった。

「最初は当時母が病気ということもあってアルバイトで入ったんですが、入店して3カ月ほどで母が亡くなってしまったので、それからきちんと就職しました」

現場はとても厳しかった。愛情はあるのだが、とにかくボロクソに怒られることも多かった。

「僕は少し集団になじめないところがあって、そこは苦労しましたね。ただ、おしさん(師匠)は怒るけど、ちゃんと教えてくれる人でした。きっちりと一から技術を学ばせてもらいました。おしさんは今でも慕って会いに行っています」

多くのすし屋は集団で働く。そこにはやはり集団ならではの人間関係の難しさはあるという。中には10年やっても出前しかさせてもらえない職人もいる。そうして不遇のまま、潰れてしまう職人も少なくないという。

近藤さんは厳しいお店で4年3カ月間働いた。近藤さんとしては、やめるつもりはなかったのだが、お店が閉店することになってしまった。

店が老朽化して建て直さなければならなくなったのだが、それに職人たちが反対し、結果的に解散という形になってしまった。職人たちは皆それぞれ新しいお店に移っていった。

「おしさんは繁華街にある大衆店に行きました。そのお店は今、外国人のお客さんがたくさん訪れていて、すしネタの回転がすごく早いんですよ。つまりすごいよいネタが使われていて、そこにおしさんみたいな一流の職人が働いてますから、オススメですね!!」

お店が閉店になったとき、近藤さんは33歳だった。それから1年間は退職金でゆっくりしながら、次の職を探した。

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