バッハは、ドイツから出ることなく65年の生涯を送ります。超ドメスティックな音楽エリートです。この点、同じ年にわずかに離れた町で生まれたゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルが、当時の後進国ドイツを出て先進国である英国で成功したのとは大違いです。バッハは、基本的に宮廷あるいはキリスト教会に属して職業音楽家として、ドイツ領内で転勤を繰り返し、地位を極めた作曲家です。
そのバッハの最高傑作と言えるのが『マタイ受難曲』です。上述のとおりライプツィヒの聖トーマス教会で初演していますが、この時、バッハは41歳。聖トマス教会の音楽監督でした。ドイツ語で、トーマス・カントル。ライプツィヒの音楽界最高の地位で大変な権威でした。が、同時に遂行すべき仕事が山のようにあって激務でした。
というのも、聖トーマス教会の付属学校で教鞭を執りつつ合唱団を率いて、年に59日ある祝祭日の礼拝の音楽を取り仕切るのです。さらに、ライプツィヒ市の音楽監督も務めるのでした。寸暇を惜しんで仕事をしていました。
当時のバッハの日程は次のようなものでした。まず、月曜と火曜に新作のカンタータを作曲します。水曜と木曜で演奏用のパート譜を作成。当時は今のように気軽に印刷できないのですべて手書きです。金曜と土曜でリハーサル、日曜日の礼拝で新作のカンタータを披露します。これを毎週繰り返すのです。トーマス・カントルに就任して最初の5年間で、約300曲の教会カンタータを残したといわれています。そんな激務の中でバッハの作曲技法は磨かれます。
メンデルスゾーンの再発見から世界へ
『マタイ受難曲』には、管弦楽と合唱の双方が織りなす壮大な音宇宙があります。生涯、ドイツを出なかった田舎の音楽家がひとり頭の中で構築したのです。強烈な感情を惹起する曲から透明感のある静謐な曲まで極めて多彩です。音楽が表現しうるほぼすべてがここにある、と言っても過言ではないでしょう。大天才ですね。
上述のとおり、初演は聖トーマス教会でした。1727年の聖金曜日というキリスト教徒にとって重要な祝祭日のための作品です。3時間を超える大作でした。が、おそらく、同時代の人々はこの作品の真価に気づいていません。宗教的祝祭に付随する音楽として教会で聴いたにすぎません。ラジオもレコードもCDもダウンロードもない18世紀のことですから。この傑作は、忘却の淵に沈みます。
そして、100年余の歳月が流れます。
『マタイ受難曲』の美しくも巨大な音楽が再び現れるのは、1829年3月11日。弱冠20歳のメンデルスゾーンによる演奏会です。天才が大天才を知るとも言えます。が、この作品は極めて先進的でした。時代がやっと作品に追いついたのでしょう。メンデルスゾーンによる再発見の後、『マタイ受難曲』は世界中の音楽愛好家を魅了してやみません。
たとえば、ポール・サイモンの傑作音盤『ひとりごと(原題:There Goes Rhymin’ Simon)』収録の佳曲「アメリカの歌」は、『マタイ受難曲』の第15と第44のコラールの旋律を正確に引用しています。ヨーヨー・マの人気音盤『シンプリー・バロック』でも第39のアリアをカバーしています。291年前の旋律が現代に生きています。
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