38歳・名古屋の残留請負人「玉田圭司」の進化 ベテランになってわかった「考える」の重要性
サッカー日本代表としてワールドカップを経験した後のキャリアの重ね方は人それぞれだ。
玉田圭司(名古屋グランパス)が初参戦した2006年ドイツワールドカップのメンバーを見ても、大会直後に現役引退を表明した中田英寿、2年後にユニフォームを脱いだ福西崇史(解説者)のような選手もいれば、12年が経過した今もプレーヤーの自分に強くこだわる楢崎正剛(名古屋グランパス)や、中村俊輔(ジュビロ磐田)のような者もいる。
38歳になった玉田も後者に該当する。
彼のすごさは代表から離れた後も休むことなくコンスタントにピッチに立ち続けていること。2018年J1で23試合出場3ゴール(33節終了時点)という出場実績が物語るように、現在は風間八宏監督が率いる名古屋攻撃陣の軸を担っている(前編記事:玉田圭司が回顧する選手の一体感と世代融合)。
11月3日のヴィッセル神戸戦で奪った今季3点目に象徴されるとおり、左サイドから持ち込んで決める「玉田ゾーン」は依然として健在。
数々のケガに見舞われていた2010年南アフリカワールドカップの頃よりフィジカル面でもメンタル面でも充実している様子だ。
「あの頃に比べるとケアは慎重になっていると思う。当時からストレッチはやっていたけど、重要度が低かったかもしれない。今は、朝クラブハウスに来たら、まず長い時間かけて風呂に入って体を温める。
練習後も交代浴とかやって、1日の疲れは1日で取ることを心掛けてる。それを積み重ねた成果なのか、ここ数年はほとんどケガをしていない。もう少し早くケアの大切さに気づいていたらよかったよね」と本人は苦笑する。
今はチームを指導者目線で見るようになった
変化したのは体のメンテナンス方法だけではない。サッカー全体を俯瞰して、何をすべきか熟考するようになったところも大きいと本人は言う。
「チームでの自分の役割、何をすべきかというのをある意味、指導者目線で見るようになったのは、2015年にセレッソ大阪へ移籍してから。
2006年から2014年まで名古屋でずーっとやってて、自分の中でちょっとマンネリ化した部分があったけど、新しい環境で一からアピールしなくちゃいけなくなったんだよね。
あの時のセレッソはJ2だったけど、(山口)蛍や(キム・)ジンヒョンといった代表クラスに加えて、フォルランやカカウもいて、個のレベルがすごく高かった。
自分は若い日本人選手と世界的な外国人選手の架け橋になって、周りをどう生かせばいいかをつねに考えてた。考えながらサッカーをするようになったのは、自分にとってすごくいいこと。楽しいし、ハマった時の喜びもあるからね」
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