「何をやってもダメな人」はいない
企業再生時の人員削減でも、まったく同じだと思います。どんなにソフトランディングであろうと、退職金の割り増しを積もうと、再就職先を斡旋しようと、「われわれは従業員を辞めさせた、意に沿わないリストラをしたのだ」と、経営側が自覚することがまず出発点です。
その自覚の下での企業経営は、ある程度、抑制的にならざるをえません。むしろ私は積極的にそうすべきだと思います。
たとえば採用面。やはり従業員を「リストラ」しながら返す刀で新しく採用するというのは、それが必要であっても、それなりに抑制的であるべきかと思います。もちろん、スキルが違うとか新陳代謝うんぬんというのは正論ですが、これも前述の「Perception is Reality」でいえば、「採用するなら、なぜリストラしたのか」という話になります。やはり禊(みそぎ)の期間としても、少なくともリストラした年度の採用活動は、相応に控えめにすることは必要ではないでしょうか。
またリストラをした会社では、投資対象もおのずと制約されます。これも矜持の問題かもしれませんが、リストラ直後に本社をリニューアルしたとか、役員車を買い替えたとか、それらがたとえ必要であっても、やはり不要不急な投資は意識的に控えることが望ましいと思います。
「役員車を買い替えることは社員何人分の費用と同等で、この買い替えをしなければ何人の社員をリストラしなくでも済んだ」というのも、正しいかどうかは別として、「Perception is Reality」です。
「何もここまで……」とか、「面倒くさくてやってられない……」などと感じるかもしれません。でも、そういうきめ細かさと気遣いが、やはり企業再生時の経営における素養のひとつだと思います。辞めていった社員に寄り添えるか、本人の気持ちに立てるか。当事者「意識」ではなく当事者にいかになるかというのが、まさに問われています。
さて、ほかに企業再生時の「ヒト」の留意点として挙げられるのは、人員面での制約です。たとえば適材適所の配置をしようにも、新しい評価制度をいれようにも、会社に残った人を前提に想像していくと、たいていの場合、そもそも適材がどこにいるのか、高評価に値する人などいるのかと不安になる場合が多いのです。
ただ、ここで社員の能力不足を言い訳にした瞬間に、再生そのものの意義が失われます。社員が会社を作っているのであり、つねに会社と社員は相似形です。したがって、「人材がそろってない」とか、「この社員でこの危機を乗り切れる自信がない」などと現有戦力を否定的にみることは、これから再生する会社を否定することにほかなりません。
理想論に聞こえるかもしれませんが、むしろ逆です。適材適所の前提は、当然、今いる現有戦力のはずで、そのメンバーを「所与」としていかにうまくポストにはめ込むか。あくまで「現有戦力」が出発点であり、ゴールでもあります。それこそがリアリティというものです。そこには、大型ルーキーの存在や、カネにモノを言わせた助っ人の招聘や、トレードによる戦力交換はありえません。
何をやってもダメな人というのはいません。きれい事でも性善説でもなく、私はそう信じています。
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