別の話。教えてほしいことがあるからと、あるビジネスマンがやってきて、いろいろと話をする。職場の不満を話し始め、それから自分は顧客から高く評価されているとか、家族が旅行好きで、自分も世界各地を一緒に観光に出掛けているとか、そのような話をし続ける。
一段落ついたところで、今日訪ねてくれた要件はなにかと尋ねると、急に深刻そうな顔になって、「自分の生き方を教えてほしい。これからどうしていくべきか」と言う。
こちらはカウンセラーでも予言者でもない。せめて「自分はこういう考えで、こういう生き方をしたいと思う。ついては助言なり示唆がないか、教えてくれないか」と言うなら意見のしようもあるが、突然に生き方を教えろと言われても、一般論でしか答えようがない。
しかも、彼の雑談めいた話を聞き始めてすでに1時間も経っているのだから、彼の周辺事情を丁寧に問い直すのも面倒。適当に答えて、適当に帰ってもらった。
「聞く力」より「話す力」を教えるほうが大事
また別の話。若い経営者とて同じことで、突然やってきて、会社を成長させるコツを教えてくれと言う。なにで困っているのか、どうしてそのような質問をもってきたのか。説明を求めても、これまた要領を得ずハッキリしない。
なにが「聞く力」だ。もちろん「聞くこと」は大事だが、最近感じるのは、「聞く力」より「話す力」を教えるほうが大事ではないかということだ。まともに「話す力」もない人の話には、聞くべきところなどなにもない。
相撲ではないが、受けて立ってやろうと思っても、ぶち当たってくることさえせず、自分から勝手にひょいひょいと土俵を割ってしまう。思い切りぶつかってこない相手では、受けて立つこともできない。
今頃の若者は、それなりの地位にあっても、まともな話し方、焦点が定まった話し方ができない者が少なくないようだ。すべての若者がそうだとは言えないが、大方の若者はきちんと話をすることができない。それなのに、われわれ年長者は、ほんとうに、まず彼らの「話を聞く」べきなのか。
しかし、考えてみれば、今の若者には気の毒な面もある。その気になれば、一日中、ほとんど人間と会話する必要のない日々を過ごしている。朝起きて、PCを開いてメールをチェックし、キーボードをたたいて返事をする。朝食も通勤途中で、自動発券機でチケットを手に入れ、黙ってテーブルに置けば食べられる。コンビニでも一言も発する必要はない。
会社に行っても、まずはPCを起動。メールの指示どおりに黙々と働く。返事もPC上でこと足りる。喉が渇いたなら、自動販売機でペットボトルのお茶を買う。帰宅途中も牛丼屋に立ち寄って、また、自動発券機で「牛丼」の券を買い、黙って、カウンターに置くだけでいい。帰宅したら、スマホやゲームに興じる。そして就寝。一日中、沈黙。沈黙。沈黙。ほとんど話すことなく過ごせてしまう。これでは「話す力」が衰えるのは当たり前だろう。
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