宗教と科学という観点から言うと、仏教は非常に革命的ともいえる。かつて物理学、特に素粒子物理学を勉強したことがあって、突き詰めていくと宗教的な領域に入っていくと感じていた。実際、物理学者たちと話していると、彼らは実験室で宗教的ともいえる体験をしていて、「この結果はとっくの昔から仏教で言われていたことではないか」と、驚くことがあるらしい。
──合理的かつ知的でありながら、どこかで神の存在を信じている、というのは日本人独特の傾向なのですか。
言葉や文化、宗教的哲学にかかわらず、多くの人は、子どもの誕生や死に直面したときなど、天を見上げて「神」にお願いしたり、答えを求めたりするような宗教的な瞬間があるのではないか。
同時にわれわれは知的な生き物で、神の存在する証拠がないこともわかっている。自分という存在がいつか消えてなくなることも。だが、その現実を受け入れるのは難しいから、神という存在を作り出し、現実を乗り越えようとしているのだろう。
──海外だと、そういう考え方には激しい反応もあるのですか。
日本の哲学では受け入れられるものが、たとえばイタリアやスペインに行くとそうではなくなる。私は、聖書に対してかなり懐疑的で、歴史的事実として見ていない。アダムとイブというたった二人から世界のあらゆる人種が誕生したとか、死んだ人間がよみがえるとか、まったく科学的ではない。聖書は美しいメタファーで、それ以上のものではない。
しかし、こういう話は、クリスチャンにとっては非常に挑戦的なものだ。ポーランドで講演したとき、聴講者の一人が途中で、私が「ローマ教皇のことを愚かでバカだと思わせようとしている」とものすごく怒りだしたことがある。そんなつもりはないし、宗教にはつねに最大限の敬意を示しているが、こういう話自体が人々の怒りを買う国は少なくない。
よく「なぜバチカンはあんなに『ダ・ヴィンチ・コード』に憤慨したのか」と聞かれるが、それはものすごく多くの人があの本を読んで、「確かにこれは一理ある」と思ったからだ。多くの人が、宗教に対して感じていた矛盾を自覚してしまったのだ。
精神世界は進化していく
──科学の進歩によって、信仰の基盤が弱体化する可能性はあるのでしょうか。
イエスでありノーだ。「これは2000年前に神が書いた言葉で、これこそが事実だ」という信仰は廃れていくだろう。一方で、精神世界は進化していくのではないか。かつてのように、「誰かが上からいつも自分を見ていてくれる」というのではなく、よりリアルな人とのつながりを通じて精神的な癒やしを得ていくようになるのでは。
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