今回は違った。ダービージョッキーの称号を自らの意思で勝ち取った。国内で20ものGⅠを勝ち、香港でもドバイでもGⅠを勝った福永騎手が「ダービーのウイニングランは特別だと聞いていたが、やっぱり本当に違った。今までとは違う喜びがあった。フワフワした気持ち。レースが終わっても地に足がつかない感じだった」と興奮気味に語った。平成最後のダービーは期待以上に素晴らしくドラマチックだった。
ダービー制覇は福永家の悲願だった。
天才と言われた父福永洋一さんはダービーに7回騎乗したが1978年カンパーリの3着が最高だった。1979年3月の落馬事故で30歳の若さで騎手を引退するしかなかった。その後は車椅子生活を余儀なくされた。福永騎手は事故当時2歳3カ月。天才だった父の幻影を追い掛けながらの騎手生活だった。父から通算すれば26回目のダービーでついに勝った。「父がいちばん勝ちたかったレースがダービーだった。志半ばで騎手生命を絶たれたが、父の後を継いで果たせなかった夢を果たせば喜んでくれると思ってやってきた」と喜びをかみしめた。
初制覇まで支えたのは周囲の叱咤激励
1996年にデビュー。3年目にダービーで有力馬キングヘイローに騎乗した。2番人気。しかし、雰囲気にのまれた。不本意な逃げで14着に失速した。2012年ワールドエースは1番人気で4着。2013年エピファネイアは2着惜敗。
「キングヘイローのダービーは初めてで緊張にのまれた。真っ白になってわからなくなった。無力感を持ったのはエピファネイアの時だった。ダービーは現役でいる間は勝つのが難しいと思った。いつになるか分からないけど、調教師になって勝つしかないと思ったこともある」
折れかける気持ちを支えてくれたのは周囲の人々の叱咤激励だった。父や、厳しく指導し続けた師匠の北橋修二元調教師、キングヘイローを管理した坂口正大調教師の思いを背負って挑み続けた。
17番枠を引いた。友道師は「目の前が真っ暗になった」。振り返って笑えたのは勝ったからこそだ。福永騎手は腹をくくるしかなかった。藤本助手がその気持ちを強く後押しした。「祐一さん、信じてます」。ゲート入りした時に声をかけた。
「騎手として、男として応えたかった」。
スタートから強気に位置を取りに行った。2コーナーで外に振られてワグネリアンは少し行きたがったが、前に馬を置いて我慢させた。4コーナーでは絶好の手応えだったブラストワンピースを閉じ込めて外に出させなかった。ライバルにスキを与えなかった。最後まで追いまくった。
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