JRAの競馬場は全国10カ所(札幌、函館、福島、中山、東京、新潟、中京、京都、阪神、小倉の各競馬場)にあり、筆者の地元である福島はその一つ。
日本の近代競馬は、江戸時代末期から文明開化の動きと併せて各地に根付き、発展してきた。福島競馬の場合、東日本大震災という未曾有の大災害の直撃を乗り越えて復活したことが、今では歴史の1ページに加わっている。福島競馬場は来年、創立100周年を迎える。
福島競馬は1918年(大正7年)6月28日に第1回の競馬が行われた。福島で近代的な洋式の競馬が初めて行われたのは、さらにさかのぼり1887年(明治20年)だと言われる。一時は郡山の開成山に場所を移したものの、公認は得られなかった。
そこで、当時、経営が行き詰まっていた静岡県の藤枝競馬俱楽部から権利を譲り受けて、改めて福島市で始まったという経緯がある。福島の要人たちの熱意が福島競馬を発足させたのである。福島は競馬熱が高いことで知られ、ファンは「日本一熱い」と言われることがあるが、これは地元の人々が進んで競馬を呼んできた成り立ちと無縁ではないだろう。
発足当時は競馬法が施行される前で補助金競馬の時代のため馬券の発売はなかったが、1923年(大正12年)に競馬法が施行されて馬券の発売が開始された。これには福島競馬俱楽部の大きな功績があったと言われる。以降、国営競馬の時代を経て、戦後の日本中央競馬会の発足に至るまで福島競馬が続いてきた。
福島の街を盛り上げてきた競馬の力
今の福島競馬は競走馬を直前に輸送するが、かつての福島競馬は厩舎での滞在競馬(レース当日以前に競馬場に競走馬が入ってレースを行う)が当たり前だった。競走馬の輸送も一苦労の時代があったのだ。名伯楽の松山康久元調教師からうかがった話では、昭和30年代には競走馬を鉄道でコンテナに乗せて輸送していたという。父で同じく調教師だった松山吉三郎氏に連れられ、福島駅から市内を流れる阿武隈川の堤防を輸送してきた馬とともに競馬場まで歩いた。厩舎ごと福島競馬場に移動してレースに臨んでいた時代で、夏休みに福島で過ごしたのは楽しい思い出だという。
その当時は、松山父子のような競馬関係者が夜の街にあふれて、街全体が競馬で盛り上がったという。かつては夏競馬を楽しむためにファンが競馬貯金をしたというエピソードもある。こうして福島競馬は地元の貴重な娯楽として市民と強く結び付いてきた。
筆者も競馬場のある福島市で育ち、子供の頃から競馬が身近なところにあったからこそ今の仕事を志したのである。子供のころ、母親が競馬場で馬券を売る仕事をしているという友だちも多かった。競馬が身近にあり、生活にも根付いていたから日本一競馬に熱いマチが生まれたのだろう。
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