閑古鳥の住宅展示場、それでも変わらぬ体質 活性化狙う策も抜本的な解決にはならない
住宅業界を長らく取材してきた筆者が「これは奇妙だな」と感じ続けてきたものがある。住宅展示場(総合住宅展示場)のビジネスモデルだ。
長く「夢のマイホーム」実現のための場所として認知されてきたものだが、近年はとにかく人の姿を見かけない。このビジネスモデルは今、いったい、どうなっているのだろうか。「閑古鳥の住宅展示場で一体何が起きているか」(2018年1月28日配信)に続いてリポートしたい。
わが国初の総合住宅展示場は
わが国初の総合住宅展示場(以下、住宅展示場)は、1966年(昭和41年)に朝日放送の主催により大阪市北区(当時は大淀区)にオープンした「ABCモダン住宅展」だといわれている。
以来、住宅展示場は「マイホームを持ちたいという庶民の夢の実現を後押しする場所」として機能し定着してきた。ABCモダン住宅展に出展していたのは、当時、成長の端緒にあったプレハブ系(工業化)ハウスメーカーだった。それまで、モデルハウスはデパートなどで展示されていたが、屋外に展示することで、よりリアルな環境で見学、体験できることから、この展示スタイルは大変評判になったそうだ。
その後、旺盛なマイホーム需要を受け全国各地に開設され、ハウスメーカーの営業拠点としてはもちろん、消費者が住まいづくりを検討する上で一度は訪れる場であり続けてきた。そうした意味では、住宅展示場はその基本的なあり方は誕生当時から大きな変化なく今に至っている。
かつては大変ユニークな住宅展示場も存在していた。南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)のホームグラウンドだった大阪球場(大阪市浪速区)は、1988年から球場が解体されるまでの10年間、住宅展示場として活用されていた。
プロ野球選手が躍動していたグラウンド内に、モデルハウスが建ち並び、観客席やスコアボードもそのまま存在していた。そのシュールさ極まる光景は、当時はマイホームを夢見る人たちだけでなく、広く多くの人々の関心を引きつけていたそうだ。
バブル時代ならでは、あるいは大阪らしい発想とも表現されそうだが、いずれにせよ当時はそれだけ住宅需要が活発で、かつ住宅産業がダイナミックに動いていたことを象徴する事例といえる。
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