アフリカ人が日本で「大学長」になれた理由 「外国人」として勝負はしなかった
この春、京都精華大学はマリ共和国出身のウスビ・サコ教授を名誉ある学長に任命した。これは歴史的な動きである。文部科学省によると、サコ教授はアフリカ系として日本の大学の学長となった最初の人物となった。京都精華大学は漫画やアニメの学部で知られ、漫画家やアニメ作家を目指す学生たちに人気がある。
51歳のサコ教授が、西アフリカでも最も発展の遅れた国の1つであるマリの高校を卒業してから、世界有数の先進国の大学で誰もが望む地位に就くまでの道のりは決してまっすぐとは言えず、挑戦に満ちたものだった。しかも、その第一歩は、慣れ親しんだ西アフリカから中国という、まったく馴染みのない環境へ飛び込むことだった。
中国語を必死で覚えたのに…
1960年代以降、中国共産党の「第三世界」同盟は、アフリカ諸国と友好関係を築き維持することを目指した。この目標達成のため、中国はマリを含むアフリカ数カ国の学生に対し給付型奨学金を支給し始めた。1985年、サコ教授はこの恩恵を受け、故郷の首都バマコを離れ、中国の南京にある東南大学で建築を学ぶ機会を得た。
授業はすべて中国語だったので、南京に進学する前に、まず北京語言大学で標準中国語の短期集中コースを受講した。
「最初の6カ月で中国語の基本を学んで日常会話ができるようにし、その後の6カ月は専門的な中国語を学び、学校で実際に勉強できるようになっていたんですが……」と、サコ教授はインタビュー中、こらえきれずに笑いながら語った。「南京では違う方言を使うことが後でわかったんです。教室に何時間も座ってまったく何も理解できないことだってありえたんです!」
中国での生活が、サコ教授にとって「アジア体験」の原型となった。その後、何度も遭遇するパターンがここで明らかになったのだ。たとえば、北京では、サコ教授や同輩のアフリカ人の学生たちは、一部の中国人にとって初めての「外国人」だった。それどころか、中国の国境を越えた世界を見たことのある人との最初の接触だったのだ。ましてや黒人と接触するなど、まったく初めてのことだった。
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