アフリカ人が日本で「大学長」になれた理由 「外国人」として勝負はしなかった

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この鉄則の第1番かつ最も重要なルールが、「日本人と同じレベルで競争する」というものだった。

「日本では最初、私たち留学生には機会均等など与えられませんでした」とサコ教授は語る。「ですが、私はそれを意識しないように努めた。京都大学の学生時代にも、クラスメートにはアフリカ人だけでなく中国人や韓国人もいました。そして留学生みんなが日本人と距離を置いているように見えました。

日本人はこれを見て、彼らは『他の人』なんだなと思っていたのです。なので、自分はそういう外国人と思われないようにしよう、と決めたのです。だから私は日本語だけで会話しました。研究室での研究も、講義やレポートも、すべて日本語でやりました」。

故郷のマリにも連れていった

このやり方で、サコ教授は中国でもそうしたように、自ら日本と世界との懸け橋としての地位を確立した。

「海外には行きたくない、外国人から学べることは何もないから、みんな日本に来て日本人から学んでいる、と言っていた日本人のクラスメートがいました。ですが私は、自分の所属研究室で研究リーダーも務めていました。

そして自分の指導者としての役割を使って日本人の目を外の世界へと広げたのです。ほかのアジア諸国への旅行の段取りをつけました。ベトナムのような、国民が苦労しながら一生懸命働いて発展しようとしているのを見ることができる国々です。研究室の中では決して見ることのできないものです。これにはたくさんのクラスメートが衝撃を受け、『ウスビと一緒に海外に出ればたくさんのことが学べるぞ!』と言う人が増えるようになったのです」

「マリにも連れていきました。帰る頃までには、みんな何か大事なことを学んでいました。国が発展国か後進国といった問題ではなく、人間の真の姿に関することです。ほかの人間から学び、感じることができるようなことです。日本社会が忘れがちなことであり、思いきって日本の外に出てはじめて学べることです」

こうした視野を広げたり、よそ者扱い化を止める努力が功を奏し始めた。

「間もなくして、自分がもはやそういった外国人として扱われていないことに気付きました。日本人は私を日本人として扱ってくれるようになっていたのです」と、サコ教授は振り返る。「子どもの頃のテレビ番組の話とか、他の外国人の批判とかについて話してくることもありました。私が日本人ではないことを完全に忘れてしまって」。

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