地下鉄サリン事件「被害者の会代表」の真実 妻として犯罪被害者として…高橋さんの32年

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そもそも、「地下鉄サリン事件22年のつどい」へ足を運んだのは、大学の新聞学科1年生として、取材活動を体験するためだった。しかも、継続して取材することが前提だったわけではなく、あくまでこの1日のルポを書くことだけが求められた課題だった。

正直に言ってしまえば、地下鉄サリン事件について特別強い関心があったわけではない。小さい頃、交番を通りかかるたびに横目で見ていた指名手配のポスターの記憶。私が生まれるよりも前に起きたテロ事件。その程度の認識だ。なので、22年のつどいで話題にあがったPTSDというものも最初はどういう症状なのか実感がわかないし、VXというものが北朝鮮による暗殺で使われたものと同じだということも知らなかった。

しかし、この時から私の胸にあったのは、「被害者と言われる人たちの気持ちを聴いてみたい」ということだ。生まれて20年間、身近な人を失ったことなどなく、両親も自分も健康な、比較的恵まれた生活をしてきた。そんな私が、「犯罪被害者」と呼ばれる人とうまくコミュニケーションができるのか。プロの報道カメラや会場の雰囲気、何よりシズヱさんの真剣なまなざしに圧倒されつつ、緊張で汗ばむ手でペンと手帳を握りしめてシズヱさんに駆け寄った。

直接話した第一印象は「よく考えて、言葉を選びながら話す人」だった。こちらの質問の意図が伝わらなければきちんと聞き直してくれるし、焦ってしどろもどろになっても落ち着いて待っていてくれる。事件後生まれた若い学生も来場していたことに触れると「最近は前より活動を控えているんです。でも、若い人のいる大学などからの講演依頼は、お願いがあれば必ず行くようにしています」と話す。今まで冷静に質問に答えていた声のトーンが少し高くなり、言葉に力が入る。

思わずはっとした。事件当時オウム真理教に所属していた信者の多くは、私のような20歳前後の学生たち。再発を防ぐために彼女が一生懸命伝えようとしている「若い人」とは、まさに自分たちのことなのだ。「もっと知りたい、知らなくちゃいけない」と思えたのは、この瞬間からかもしれない。少なくとも、何もわからなかった自分だからこそ相手の気持ちを知るべきだと思えたのだ。

継続的にシズヱさんを取材することに

こうして取材活動に興味を持った私は、2年生になった春からドキュメンタリーを作るゼミに入り、継続的にシズヱさんを取材することになった。

高橋シズヱさん(筆者撮影)

「怖そう」、「難しそう」という理由で敬遠する仲間もいたし、実際にそういう気持ちは私にもあった。だが、私はあの日のもやもやした気持ちをそのままにしたくなかったのだ。ドキュメンタリーはおろか社会人相手に取材をしたことなど一度もなかった私は、まずは大学で直接話をする機会を設けてもらった。

スーツ姿でがちがちに緊張しながらシズヱさんを迎えに行く。シズヱさんは、周囲から少し離れてJR四ツ谷駅前で待っていた。先日の集会での全身黒にまとめた服装とは全く違って、白地にピンクと黄色の花があしらわれたシャツが可愛らしい。声をかけると、にっこりと柔らかく笑って「高橋シズヱです」と応じてくれた。

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