地下鉄サリン事件「被害者の会代表」の真実 妻として犯罪被害者として…高橋さんの32年
これまた前回とは違った明るいトーンで「この前東京タワーまで歩いて行っちゃった」、「被害者の会で知り合った友達とこの前旅行に行ってね」などと近況を話し、旅行先の様々な写真も見せてくれる。スマートフォンはもちろん、LINEやFacebookといったSNSを使いこなす姿にも驚いた。
地下鉄サリン事件関連のニュースで硬い表情でテレビに登場する彼女が、笑い声をあげながら私生活を話す様子になんだか面食らってしまった。第一印象とは真逆な、快活なしゃべり方。なぜこんなにもギャップを感じるのだろうか……不思議に思った。
「聞きたいことは、聞いてください。今更、答えたくないことなんてありませんから」。私が最初の質問をするよりも前に、シズヱさんははっきりと言った。無知なら無知でいい。むしろ、事件を知らない人がどう思っているのかを知りたいと。この一言が「自分が知らないことが恥ずかしい」、「怒らせてしまうかもしれない」と、どこか臆病でいた自分を吹っ切れさせてくれた。
事件に関しては堂々としているシズヱさんだが、幼い頃は委員長やリーダー的な役割は全くやってこなかった、内気な普通の女の子だったという。そのイメージの違いにも驚いた。オウム真理教についても週刊誌で読む程度のことしか知らなかったという。あぁ、この人は私と同じだったのだ。
「挫折することもなく」生きていた、同じ1人の女性。だからこそ、その日常を奪われた時の気持ちは自分にもわかるはず……これは、自分自身の問題でもあるのだ。「彼女のことをもっと知りたい」。今度ははっきりと、そう思った。
32年間家族で住み続けた地、北千住へ
2017年5月18日。シズヱさんに会うために、私は代々木上原から我孫子行きに乗っていた。事件が起きた車両とは反対方向だが、同じ千代田線の線路を通る。音楽を聴いたり、友達としゃべったり、居眠りをしたり、スマートフォンをいじったり。よく見る光景が広がる朝だった。私自身も音楽を聴こうと、イヤホンをスマートフォンに刺し、電源をつける。表示された時間は、午前10時を少し回ったところだった。
「22年前の3月20日のこの時間には、もう地下鉄サリン事件は起こっていた。そこにはこんな平穏はなかったんだ」という考えが、ふいに頭に浮かんだ。6000人以上の人が、人間の神経を一瞬で破壊するガスを吸い込み苦しんだ。その人たちにとっても、いつも通りの朝になるはずだったのに。そう考えると、いつもの地下鉄の風景が違って見えてくる。
地下鉄サリン事件後から取り入れられた、中身の見える透明なゴミ箱。
「駅構内または車内等で不審物を発見された場合は、直ちにお近くの駅係員または乗務員にお知らせください」というアナウンス。
今まで気にも留めなかった事件の痕跡が、恐怖心を煽る。「自分が気づかないうちに事件に巻き込まれていたら……」。電車に揺られている間、そんな不安に襲われていた。
地下鉄を降りた先は、亡き夫が生まれ育った故郷であり、結婚後シズヱさんも家族で暮らしていた北千住。事件の前と事件の後の合わせて32年間、シズヱさんを見守り続けた。思っていたよりもデパートや駅ビルが大きく、人通りも多い。JRのほかに日比谷線と千代田線、さらにはつくばエクスプレスや東武スカイツリーラインも乗り入れており、駅構内は複雑な造りだ。ここから引っ越してようやく5年になるというが、シズヱさんにとっては住み慣れた街。道に迷うこともなく、時間ぴったりに笑顔で手を振りながらやってきた。