※ 対談(その1):教養の出発点は、「日本人とは何か」
日本の歴史上、最も重要な宗教的言語は「心」
――前回の対談では、スクールカーストなどの問題を取り上げながら、宗教の必要性について語っていただきました。
山折:私は日本の歴史の中で、最も重要な宗教的言語を選ぶとすれば、「心」だと思う。これはもう宗教的言語であると同時に、今、現代日本の社会においては、重要な精神原理にまでなっている。漠然とそういうかたちで支持されてきた言葉だと思います。
考えてみると、「心」という言葉を英語やドイツ語、フランス語に翻訳しようとすると、日本人が「心」という宗教的言語に求めているイメージが、ほかの国の言葉にはならないことがよくわかる。これは独特の言葉ですよ。
とにかく戦後を考えても、われわれはずっと「心の時代」「心の時代」と言い続けてきた。文科省なんて文部省の時代から、凶悪な事件が起こると必ず「心のナントカ委員会」を設置する。そして、ああでもない、こうでもないと同じような議論をずっとやっている。出てくるのは決まって心理学者だ。
上田:あと教育学者。
山折:宗教家なんてまず呼ばれない(笑)。これもひとつの大問題ですよ。もう少し歴史をさかのぼると、「古事記」「日本書紀」の世界では「清き明き心」と。もうあの時代から「心」と言っているわけだ。
中国文明の影響を受けて、最澄が「道心」と言っている。「道を求める心」、これも心だ。今の天台宗では重要なキーワードになっている。空海は何を言ったか。「十住心論」と言っている。人間の心は動物の段階から高められて、最後は真言密教までで10段階あると。
中世になると、法然、親鸞は「二種深信」と言った。これは2つの宗教的に深い心のことを言っている。道元は「身心脱落」。日蓮は「観心本尊抄」と、「心を観なければいかん」と言っている。
ずっと心、心、心の伝統が続いて、15世紀になって世阿弥は「初心忘るべからず」と言った。日本人は、結婚式でたいてい誰かが言っているよなあ。
上田:ハハハ。
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