山折:世阿弥は、心に対する日本人独特の感覚を芸術言語にした第一の人です。以後、「心技体」とか「無心」と言うようになった。これがずっと続いていって、最後は夏目漱石が「則天去私」と。この「去私」は「無私」ですよ。私を捨てる。それから小林秀雄は「無私の精神」と言った。この「無私」は結局は「無心」のことです。
宗教的世界から文学的世界まで、心、心、心と言い続けてきた。こんな文明文化はほかの国にありませんよ。これはいったい何なのか。
私が日文研(国際日本文化研究センター)にいた頃、外国人が日本文化を研究するために大勢来ていました。その中に心の世界を研究しようと考えた研究者がいた。彼は「『心』は英語にならない。マインドでもスピリットでもない、ハートでもゴーストでもない。そのすべてを含んだものが『心』だ」と言い、結局、あきらめて、「『心イズム』にしました」と言っていた。この「心イズム」は、国際雑誌の宗教論文の中で少しずつ定着し始めています。
この日本人の心という宗教言語に対する関心はいったい何に由来するのか。やっぱり内面的なものへの関心に由来し、それは超越的なものに対する関心の希薄さと対応している。一神教的世界観と多神教的世界観の違いかもしれない。日本は多神教的世界観でやってきました。
これを学校教育で客観的にメリット、デメリットも含めてきちんと教えているかというと、さぼっているわけです。それでは「自分とは何か?」がわかるわけがないし、「日本人とは何か?」もわからない。私はそれを言い続けているのですが、誰も聞いてくれない。今、「東洋経済オンライン」が初めて取り上げてくれようとしている。
教養を積むことによって心が成熟する
上田:アハハハハ。だけど、その心について日本人は二枚舌ですよね。たとえば「ものすごく勉強ができて心のない子と、真心はあるけれど勉強はあまりできない子、さて、あなたの子どもはどっちがいいでしょうか?」と聞くと、表面上は「そりゃあ真心のある子がいい」と答えますが、はたしてどうなのか……。
先生は、まさに綿々と続く心の内容が変化してきているとお考えなのでしょうか。それとも日本人の心は変わっていないが、心への注目の仕方が変化してきているとお考えですか。
山折:時代時代によって解釈が違うと思いますが、ずっと一貫しているのは、心は成長する、成熟するという考え方。そこで教育に意味がでてくるわけです。教養を積むことによって、心が成熟する。この考え方は1000年の間、変わらないと思う。
しかし、心理学ではそこにあまり注目しない。むしろ人間の心はいろんなものにとらわれ、執着する。心は我につながって、その間の諸問題を精神分析に回さなければいけない。その我の問題との付き合いに失敗するとウツになる、とこう考える。それで心理学者や精神科医が登場する。発言しすぎだよなあ。何かというと、香山リカさんが出てくる。
上田:アハハハハ。
山折:香山リカさん、嫌いじゃないですよ(笑)。なかなかいい人です。いい人ですが、あれでみんなわかったような気にさせられちゃうのが問題。何でもかんでも香山さんを出させるメディアの責任も非常に大きい。
文科省の審議会でも、心理学者がずらっと並んでいて、外国の最新の心理学理論を1時間、延々としゃべる。新しい理論を真っ先に紹介して、自分の学問的業績にするわけだ。
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