「本気でキツい参勤交代」の知られざる裏側 「1日40キロで1年おき…」殿様も歩いた?
オランダ商館の外国人も驚いた「大名行列」
元禄4(1691)年4月5日、長崎出島のオランダ商館長一行150人(荷駄隊を含む)は、東海道戸塚宿を西へと出発しました。恒例の江戸参府をはたし、将軍徳川綱吉との謁見を終えて帰途についたところでした。
そのうちのひとり、商館付医師として前年来日し、初めて江戸参府に随行したエンゲルベルト・ケンペル(1651~1716、実はドイツ人)は、ヨーロッパとはまったく異なる文化をもつ、この東洋の小国に興味が尽きず、行く先々での見聞をこと細かく記録しています。
夜明け後の出発からまもなく、前方からこちらに向かう大きな集団が彼の目に止まりました。聞けば、それは徳川御三家のひとつ、紀州藩の大名行列で、ちょうど江戸への参勤の途中でした。
ところが、その大きな集団は「大名行列の先鋒隊」にすぎませんでした。やがて街道を進むと「さらなる大規模な集団」が新たにあらわれます。しかし、それも「行列の荷駄隊」にすぎませんでした。
ようやく昼近くになる頃、紀州藩第2代藩主、徳川光貞(1627~1705)の駕籠を囲む「行列の本隊」とすれ違います。その「桁違いの規模と絢爛豪華さ」に、ケンペルらは圧倒されました。
延々と続く長い本隊の行列が通り過ぎ、ようやく最後尾の殿(しんがり)隊がケンペルら一行から遠ざかる頃には、辺りはもうすっかり夕方だったといいます。
江戸幕府の大名統制政策として、誰もがよく知る「参勤交代」。今回は、時代劇でもおなじみとなった、この制度の「ちょっと意外な実態」について解説します。
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