「本気でキツい参勤交代」の知られざる裏側 「1日40キロで1年おき…」殿様も歩いた?

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行列がより大がかりになっていくのには、理由がありました。

Q7.なぜそんなに大人数が必要だったのですか?

大名たちが威厳を競い合った結果ですが、「人数を増やさざるを得ない事情」もありました。上記の規定された人数以外に、上級家臣の家来や、さまざまな人足なども必要だったのです。

たとえば、藩主の乗る駕籠は大きく、上記の前田家の例では担ぎ手は14人も必要で、その交替要員も同数以上に必要でした。また、乗り換え(召替)用の別駕籠、高齢者や上級藩士、医師、夜勤番明けの藩士が乗る駕籠もあるため、その分の担ぎ手もいります。

さらに、道中での現金払いに対応するため用意された大量の鋳造貨(小払銭)、行列が夜道を歩く際に必要な松明・提灯、雨天用の合羽、休憩時のお弁当や軽食・お茶を運ぶ人、軍馬・荷馬の世話人(口取)など、膨大な荷物の運搬を担当する人たちは、上記の人数には入っていませんでした。

このような事情から、必然的に行列の人数は肥大化する傾向にあったのです。

殿様もときには歩いた

Q8.常にあの「下にィ~」の掛け声とペースで行進していたのですか?

いいえ、ずっとではありません。そもそも、「下にィ〜」の掛け声が許されたのは、徳川氏の一門である御三家などに限られました。

また、列を整えて足並みを揃えたあのお馴染みの光景を「行列を建てる」と言いますが、この間は進むペースがだいぶ落ちてしまいます。そのため、行列を建てるのは、大きな宿場や要衝の宿場、城下や関所など「限られた場所のみ」でした。

Q9. 藩主は駕籠に乗ったきりですか?

そうでもなかったようです。いくら日頃から乗り慣れているとはいえ、さすがに駕籠に乗りっぱなしの長距離移動はキツいこともあり、ときには藩主も駕籠から降りて道中を歩くこともありました。

福井藩主、松平慶永(春嶽、1828~1890)は、まだ10代の若者だった弘化2(1845)年の参勤で、その道中の大半を自らの足で歩き、各地のグルメや名所見物を楽しんだことを、記録に残しています。

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