「本気でキツい参勤交代」の知られざる裏側 「1日40キロで1年おき…」殿様も歩いた?

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Q12.行列は男ばかりだったのですか?

基本的に、行列は男性によって構成されていました。

しかし、藩主の身の回りの世話を行う女性たち(侍女)も参勤交代にともない任地に赴く必要があったことから、彼女らは藩主の通行の数日前か後に、行列とは別個に出立しました。これは、体力的問題(連日40km歩行)を配慮しての措置でしょう。

一方で、変わった同行者もいました。久留米藩主、有馬則維(1674~1738)は、ペットとして飼っていた将軍拝領の「犬」を、行列に連れていました。

「積年の反幕思想の底流」になった可能性も

参勤交代の制度が制定された目的は、江戸に往復させることで大名たちに高額な費用を負わせることでした。各藩の財政を圧迫することを意図していたわけです。実際、たとえば松江藩では、参勤交代にかかる費用が年間藩財政の3分の1にも達していました。

このように、この制度は江戸時代を通して連綿と維持されてきましたが、その間、享保7(1722)年の8代将軍吉宗のときには、幕府のほうが財政が逼迫するようになります。

その財政再建を目的に、各大名に石高1万石につき100石の米の上納を命じ、その代わりに参勤交代の在府年限を半年、在国を1年半に定める制度緩和が実施されたこともありました。

ただし、財政再建のめどが立った8年後にこの制度は元に戻され、参勤交代制が抜本的に見直されたのは幕末期の文久2(1862)年でした。

作家の佐藤優氏の座右の書である「伝説の学習参考書」を全面改定した『いっきに学び直す日本史』は、「教養編」「実用編」合わせて20万部のベストセラーになっている(書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします)

当時、将軍後見職だった徳川慶喜、そして前述の前福井藩主で政事総裁職の松平慶永らの主導のもと、制度が大幅に緩和されて、参勤は3年に1度、江戸在府も約100日に短縮となりました。それだけ、この制度に対する各藩の反発が強かったのです。

しかし、急激に弱体化する幕府には、緩和されたこの制度を維持する統制力もなく、やがて倒幕運動に敗れた幕府は、ついに滅亡のときを迎えます。本来、「幕藩体制を強化するための象徴」だった参勤交代制度が、「積年の反幕思想の底流」となっていった可能性があります。

参勤交代のように、「時代劇や映画などで何気なく見知っている事柄」でも、歴史を学んでその詳細を知れば、このように「新しい発見」や「気づき」はたくさんあります。また、普段見るドラマのストーリーも、より楽しめるようになります。

ぜひ最新の日本史を学び直すことで「歴史の知識と教養」を増やし、「歴史をより深く楽しむ目」を養ってください。

山岸 良二 歴史家・昭和女子大学講師・東邦大学付属東邦中高等学校非常勤講師

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やまぎし りょうじ / Ryoji Yamagishi

昭和女子大学講師、東邦大学付属東邦中高等学校非常勤講師、習志野市文化財審議会会長。1951年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院修士課程修了。専門は日本考古学。日本考古学協会全国理事を長年、務める。NHKラジオ「教養日本史・原始編」、NHKテレビ「週刊ブックレビュー」、日本テレビ「世界一受けたい授業」出演や全国での講演等で考古学の啓蒙に努め、近年は地元習志野市に縁の「日本騎兵の父・秋山好古大将」関係の講演も多い。『新版 入門者のための考古学教室』『日本考古学の現在』(共に、同成社)、『日曜日の考古学』(東京堂出版)、『古代史の謎はどこまで解けたのか』(PHP新書)など多数の著書がある。

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