ナイキの有名コピー「JUST DO IT.」の真実

元ナイキジャパン社長が語る創業者の信念

フィルの部屋は、日本的なイメージを意識したインテリアに囲まれ、障子のような白いスクリーンから外の光が差し込んでいました。広さはそれほどでもなかったのですが、とてもスタイリッシュでした。そこで、フィルに会うなり言われました。「日本人がするように、靴を脱いでくれないか!」と。それが最初の出会いでした。

そのときの面接を経て、ナイキジャパンの社長となることが決まり、3カ月間、本社で研修を受けました。そして1993年、私はナイキジャパンの社長に就任したのです。

お前自身がナイキになれ

――当時のナイキジャパンはいかがでしたか。

秋元 征紘(あきもと ゆきひろ)/元ナイキジャパン社長。1944年生まれ。1993年から1995年まで、ナイキジャパン代表取締役社長を務める。ナイキ創業者フィル・ナイトとビジネスで深く関わった経験を持つ。1970年日本精工入社。ニューヨーク、トロント駐在を経る。その後自ら起業するも失敗、35歳のときに時給600円のアルバイトとしてケンタッキーフライドチキンで働き始めて人生を再スタートさせ、日本ペプシ・コーラ副社長、日本KFC常務取締役、ナイキジャパン代表取締役社長、ゲラン(LVMHグループ)代表取締役社長・会長などを歴任。現在はジャイロ経営塾代表、ワイ・エイ・パートナーズ代表取締役。著書に『こうして私は外資4社のトップになった』(東洋経済新報社)、『一流の人たちがやっているシンプルな習慣』(フォレスト出版)、『ビジョナリー・マネジャー』(クロスメディア・パブリッシング)など(撮影:今井 康一)

『シュードッグ』のなかに、ナイキが日商岩井に救われるシーンがあります。1975年のことですね。この本は、1980年までの出来事しか書かれていませんが、実は、1980年以降にも、ナイキは日商岩井に助けられているんです。

ナイキと日商岩井は、1981年に合弁でナイキジャパンを設立しました。ところが、私が聞いた話では、初期は苦戦の連続で、ある年、粉飾決算が明るみに出て、蓋(ふた)を開けてみると大量の不良在庫を抱えてしまったのです。そこで、日商岩井がナイキジャパンを100%子会社化して、その不良在庫は南米を含めた海外市場で処分するという事態に至ったようです。

1993年、マイケル・ジョーダンのシリーズに支えられたナイキ本社の好業績もあって、ナイキジャパンは日商岩井の子会社から、改めて100%ナイキ本社の傘下というかたちにシフトしたのです。ですから私が社長に就任した段階では、ほぼ全員が日商岩井の子会社の社員で構成されていました。

初めてナイキジャパンに足を踏み入れたとき、先ほどお話しした本社に行ったときとはまた別の衝撃を受けました。幹部層にはメタボぎみのおじさんがたくさんいて、しかも、オフィスはとてもたばこくさかった。ナイキ・ワールド・キャンパスはもちろん禁煙でした。一方のナイキジャパンは、いかにもその当時の日本の会社という感じで、どう考えても同じナイキの社員とは思えない。「これはヤバいな」と思いました(笑)。

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