神保町で異色出版社を興した男の譲れない志 紆余曲折の末、「作りたい本」にたどり着いた

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実家は工場を閉鎖し貸しビル業に移行した。つまり不動産業である。中村さんは、

「九州に知り合いの不動産屋がいるから入社して修業してこい」

と言われ、1人九州に居を移して働き始めた。仕事をしていると、

「東京から生意気なボンボンがやってきた」

と言われ、すごい迫害を受けた。悔しかったが、負けるわけにはいかなかった。仕事で見返すしかない。聞き慣れない方言が飛び交う中で、とにかく会社にかかってきた電話を取りまくって、話を聞いて、客をつかまえて、成約させた。入社してすぐ売り上げ1位になり、退社するまでずっと守り続けた。

九州では31歳まで、実に9年間働いた。

東京生まれの弱さを克服

「東京生まれの人って弱いんですよね。地方から東京に来た人って、早く何かをなしとげないと、故郷に帰らなければならないじゃないですか。たとえばミュージシャンにしろ、ファッションデザイナーにしろ、やることがクリアに見えていて、そこに向かってガツガツと頑張る。でも東京生まれは、何もなしとげなくても、死ぬまで東京で暮らします。やりたいことがあっても今日じゃなくていいやって思ってしまう。自分をガンガン売り込んだりするのは、野暮に思えてしまう。ガッツやハングリーさに欠けると思います。それが、東京生まれのハンディキャップですね」

九州の9年間の生活で、東京生まれの弱さを克服できた気がした。強くなったと実感できた。

「九州に行かず、ずっと東京にいたらきっと嫌な人間だったと思いますね。小さい頃から勉強ができて『神童』って呼ばれて、周りを見下していたし、つまらないヤツとは一言だって口をききたくないと思ってました」

不動産の営業では、どんなつまらない人とも話をしなければならない。嫌だったが、しかし実際に話をしてみると、どんなつまらなそうな人でも面白い側面が1つはあるんだな、と知ることができた。

九州にいる間に結婚して子どもも作ったが、離婚した。そして東京に戻ってきた。そもそもは、家の跡を継ぐために、九州で修業をするという話だったが、東京に帰るとそんな話はなかったことになっていた。

家の仕事の代わりに、ある出版社で働くよう勧められた。そもそも出版業には興味があったので行くことにした。しばらくは編集業務以外の仕事を与えられたが、入社後半年経った頃、編集業務をすることになった。

与えられた仕事はそつなくこなしていたし、重版がかかる本も製作したが、自分の企画が通らなくてイライラすることもあった。

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