大奥「最大のスキャンダル」絵島事件は冤罪か 「真の黒幕」はあの人物?「政争」が生んだ悲劇

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Q16. つまり真の黒幕は、残る老中の土屋政直、井上正岑ですか?

はい。もちろん断定はできないものの、彼らを中心とした反間部勢力による「非常に巧妙な陰謀」だった可能性は濃厚だと思います。

土屋政直は4代将軍家綱の時代から老中を務める重鎮で、間部のような側近による政治主導に懐疑的な立場でした。

また、井上正岑は間部、新井両者とも日頃から関係が険悪だったらしく、その様子は新井の残した記録からもうかがえます。

当時、世間では「忠臣蔵」ブームにより歌舞伎が隆盛するのと同時に、興行がエスカレートの一途をたどり、江戸の風紀が乱れる一因ともなっていました。

これを正したい江戸町奉行らが、間部の権威失墜を目論む土屋らと結託し、一連の騒動を画策したものとも考えられます。

「政争の犠牲」となった大奥と江戸庶民

事件からわずか2年後、将軍家継が8歳の若さで亡くなると、大奥では家継の実母の月光院に代わって実権を握っていた天英院の推挙もあり、紀州藩主の徳川吉宗が8代将軍に就任しました。

新たな政治改革に取り組むため、吉宗は幕府の人員を刷新した結果、間部や新井はもちろん、土屋、井上ら旧勢力も政治の表舞台から姿を消しました。

一方、信州高遠に流された絵島は、かつての華やかな大奥暮らしとはまったくかけ離れた、最低限の衣食住が確保されただけの不便な生活を強いられていました。

衣服は粗末な木綿のみで、酒や菓子の嗜好品、手紙、読書も禁止され、勝手な面会や外出も許されないという、非常に孤独な毎日を送ったといいます。そして寛保元(1741)年4月10日、病により61歳で没しました。

27年に及んだ流人生活において、絵島は江戸のことについていっさい語ることはありませんでした。現在も、現地には幽閉所の跡が残されています。

山村座の生島新五郎は、絵島が亡くなったのを機に、その翌年の寛保2(1742)年、赦(ゆる)されて江戸へ帰還を果たします。しかし生島も、1年後に没しました。

現代の事件でも、当初の報道で発表されたセンセーショナルな記事が、その後の綿密な取材による続報で覆るケースがあります。

日本史には、ほかにも絵島事件のような「疑問だらけの事件・出来事」は多数存在します。ぜひ、自分の興味のある題材を「深く」知ることで、「教養と物事を深く見る目」をいっきに身に付けてほしいと思います。

山岸 良二 歴史家・昭和女子大学講師・東邦大学付属東邦中高等学校非常勤講師

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やまぎし りょうじ / Ryoji Yamagishi

昭和女子大学講師、東邦大学付属東邦中高等学校非常勤講師、習志野市文化財審議会会長。1951年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院修士課程修了。専門は日本考古学。日本考古学協会全国理事を長年、務める。NHKラジオ「教養日本史・原始編」、NHKテレビ「週刊ブックレビュー」、日本テレビ「世界一受けたい授業」出演や全国での講演等で考古学の啓蒙に努め、近年は地元習志野市に縁の「日本騎兵の父・秋山好古大将」関係の講演も多い。『新版 入門者のための考古学教室』『日本考古学の現在』(共に、同成社)、『日曜日の考古学』(東京堂出版)、『古代史の謎はどこまで解けたのか』(PHP新書)など多数の著書がある。

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