大奥「最大のスキャンダル」絵島事件は冤罪か 「真の黒幕」はあの人物?「政争」が生んだ悲劇
Q12. もうひとつのスキャンダルとは何ですか?
将軍家継の側近である間部詮房(まなべあきふさ)が、絵島の仕える月光院と密通していたといううわさです。
詮房は前将軍の家宣の腹心として幕府を主導し、月光院が産んだ家継が将軍に就任しても、引き続き側近として仕えました。
このとき、家継はまだ幼少のため大奥で生活していたことから、例外的に詮房の大奥への出入りが認められていました。これが曲解され、月光院との密通のうわさへと発展したのでしょう。
本当の狙いは「大奥」ではなかった
Q13. 絵島や間部が狙われる動機とは?
「前将軍・家宣の出自」と深く関係しています。
6代将軍家宣は、もともと甲府藩主(22万石)で綱豊(つなとよ)といい、5代将軍綱吉の兄である甲府藩主綱重(つなしげ)の子でした。綱吉の後継者に決まると家宣と改名し、将軍就任後も側近や大奥には甲府藩時代からのメンバーを抜擢して用いていました。
そして家宣の死後も、月光院が産んだ家継が7代将軍に就任し、大奥では天英院をはじめ月光院や絵島が、幕政は間部詮房や新井白石が握るなど、甲府閥による主導が続き、幕府内の旧勢力からの反発が強まっていました。
Q14. 旧勢力とは具体的に誰ですか?
間部らに幕府の実権を奪われていた幕府上層部です。
当時、幕政のトップにいたのは、大老の井伊直興(なおおき)、老中は土屋政直、秋元喬知(たかとも)、井上正岑(まさみね)、阿部正喬(まさたか)、久世(くぜ)重之でした。なお、事件時に取り調べを統括していたのは老中の秋元です。
Q15. では、すべては「秋元喬知によるシナリオ」だった?
いいえ。秋元はたまたまそのときに月番として担当を余儀なくされただけで、実は間部に親しい立場の人物でした。絵島らの評定が結審後、秋元はよほどの心労だったのかにわかに体調を崩し、その年の8月に急死します。
また、大老の井伊直興は事件の取り調べがまだ続いていた時期に辞職して隠居していることからまったくの部外者で、老中の阿部正喬、久世重之も間部の政策に賛同する側にいました。
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