休日に「ボーッとできない」を乗り越える方法 「無心になる」は練習次第で習得できる
眼鏡をかけている方なら、眼鏡を外して書類を眺めたときの、ボヤーッとして焦点が合わない感じをイメージしていただいても、よろしいかと思います。
すると、たとえ頭の中では「今日はあんな失敗をしてしまって……」とクヨクヨしていても、そのような官僚の文書に焦点を合わさずにボヤーッと眺めていれば、そのクヨクヨはよく見えなくなるため、意味を失います。
またたとえ、「あれもやり忘れていた! 早くしないと」という焦りがやってきても、焦りの官僚文書について、眼鏡を外したような心地で眺めていれば、その焦りは意識への影響力をすっかり失います。
このようにして、真にボーッとし始めるなら、喜びも怒りも哀しみも、心を奪うことはできなくなり、心が空っぽさの安堵感を味わうのです。
風船のイメージにせよ、官僚文書のイメージにせよ、それらについてポヤーッとしてみましょうという勧めは、阿呆になり切ってみましょう、と言い換えることもできましょう。
考えがマンネリ化したら、ボーッとしきる
ところが、そうやって阿呆になり切ってみて、何も望まず期待せず、徹頭徹尾ボーッとしてみるなら、意識がクリアに覚醒してくるのがわかるはずです。
これは、精神の覚醒レベルや充足感・安定感をつかさどっているセロトニンの、脳内分泌が高まるためと思われます。結果として、「阿呆になり切る」という言葉の字面とは裏腹のことが起こるのです。頭が冴え冴えとして、直感力や判断力といった、言葉抜きの智慧(ちえ)が働きやすくなります。
「考え」や「言葉」にとらわれすぎて思考回路がマンネリ化している場合、ボーッとし切ることは、特効薬になるでしょう。浮かんでくる考えをボンヤリ流すままにするとは、習慣化している思考回路に対してボーッとして、興味を落としてしまうことともいえます。
言い換えますと、脳の神経細胞同士のネットワークのうち、パターン化して、電気刺激が通りやすくなっている回路への、興味と執着を脱色することになるでしょう。つまり、習慣化していた細胞間の回路への執着を弱めることで、より有用な別の未知の回路に電気刺激が通りやすくなる、ということでもありそうです。
かくして、執着を手放していれば、その阿呆っぷりの真っ只中において、従来とは違った閃(ひらめ)きや決断が、スパーンと生じてきたりもするものなのですよ。
ところで蛇足ながら、こういった「効用」を欲しがって、すぐにボーッとすることはできませんし、心も休まりません。何にも気負わず期待せず、阿呆になるという先入観のなさと素直さが大切なのですよ。
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