別に哲学者になる必要はありません。しかし、自分でも認めているように、あなたは「中途半端」ですね。初めのうちは、「いい人」に腹が立つと訴えながら、やがて、自分も「いい人」になりたいのだが、どうしたらいいのか、という語調に変わってくる。両者は矛盾なのではなく、それをつなぐ糸はすぐ見つかります。それは、「いい人」に腹が立ちながらも、「いい人」である大多数から排斥されて生きることは嫌だ、という見やすい糸です。
言いかえると「いい人」にムカつくという自分の感受性は大切にしたいが、この感受性を持ち続けると必ず排斥される、よって、変えたい、となりましょうか。こう書き直すとはっきりするように、これはずいぶん身勝手な要求ですね。私は大学教師をしていた頃、レポート提出前によく学生たちに次のように言いました。
「君たちが、私の教えたことにすべて反対なら、選択は2つしかない。ひとつは、自分の信じることをそのままレポートに書いて、(場合により)『不可』を取る道。2つめは、自分の信念を曲げ私に迎合してレポートを書いて(場合によって)『優』を取る道」
信念は傷を負うから価値がある
自分の信念を貫きながら、いかなる傷も受けたくないという甘ったれた期待など抱いてはならない。信念はそれが少数派であればあるほど、社会の趨勢に逆行すればするほど、全身傷だらけになる。だからこそ価値があるのです。
「いい人」にムカつきながらも、社会から排斥されると怖いから、適当に社会に同調するにはどうしたらいいのか、という「中途半端」は、(「悪い」というより)私の趣味に合いません。「中途半端」ではないとすると、私がレポート提出前に言ったように、(1)自分の生きにくさをテコにして、いかなる傷を受けてもそれをさらに追求するか、(2)それをさらりとかなぐり捨てて「いい人」で充満する社会に迎合するか――しかないでしょう。
そして、私は(1)のみならず(2)も真剣に求める限り、立派な生き方だと思います。「いい人」になるのがとても簡単な人が「いい人」になっても、何の価値もないのに対して、あなたのようにそれがとても苦手な、いわば「生きにくい」人がその実現に向けて全力を傾けることは、とても価値あることです。誠実にそうした努力を続けているうちに、たぶんあなたのひたむきな態度を見て、同調する仲間ができることでしょう。
そうした人々との付き合いがあるかないかで、人生の相貌はがらりと変わります。多くの仲間との付き合いを通じて、あなたは被害妄想からも自己嫌悪からもある程度抜けられますし、そのとき心の底から「いろんな人がいてもいい」と言えることでしょう。
最後に参考までにまた今回の相談に関連する私の本を挙げますので、読んでみてください(『私の嫌いな10の言葉』『私の嫌いな10の人びと』新潮文庫、『ひとを〈嫌う〉ということ』角川文庫、『非社交的社交性』講談社現代新書)
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