コロンバイン乱射事件、加害生徒の母の告白 「わかりやすい原因などない」という現実
「なぜ」という答えは永久に分らなくても、「どのように」という過程を追うことはできる。そう言わんばかりに、著者は調べ、考え、追想し、事件と向き合い続ける。詳細は実際に読んでいただきたいが、そこには嘆き悲しみ、後悔にくれることを超えて、同じような惨事が繰り返されないよう、何かひとつでも明らかにしたいという姿がある。
読後の爽快感のようなものはない
読み終えての結論は、必ずしもすっきりとしたものではない。突き詰めて考えていけばいくほど、明白な兆候も、絶対的な予防策も存在しないことがわかってくるのだ。予兆だったともとれそうな場面は数あれど、全てが後付けにすぎない。ディランの表向きの行動や態度は、思春期の男子にありがちなそれと見分けがつかないものだった。「親なら子の気持ちがわかるはず」というほど、現実は単純ではなかった。
エリックとディランの本心に気がつけなかったのは両親だけではない。銃や爆弾を入手していたことを事件前から知っていた共通の友人たちも、まさかそれが大量殺人のためとは夢にも思わなかった。彼らが書いた暴力的描写に溢れる作文を読んだ教師も、彼らがトラブルを起こした時に更生プログラムに当たったカウンセラーも皆、わからなかった。
できることがなかったわけではない。あそこでこうしていれば、という後悔は随所で語られている。それでも、ディランがなにか恐ろしいことを計画しているという、明らかなサインはなかった。加害者の家族がこのことを言うこと自体、とても勇気が要るだろう。わかりやすい落ち度があれば、世間もある意味「納得」できたのかもしれない。しかし、単純な真相など存在しない事件は山ほど存在するのが現実だ。
読後の爽快感のようなものはない。本書が出たからといって、著者の感情が昇華されるわけでもない。カタルシスを求めて書かれた本ではないのだ。では何のために書かれたのかと言われたなら、「大量殺人犯には明確な特徴や兆候がある」、「身近な人ならばそれが見抜いて防ぐことができて当たり前」といった根強い幻想を打ち砕くためだと答えたい。単純な見方をしないことが、同じような惨劇を繰り返さないための一歩目のように思えたのだ。
「ああすればよかった」ということ以上に、それらを凌駕するような現実の複雑さを思い知らされる。本を閉じる時に残る、消化しきれない感情。それを受け止める力を、問われているような気がしてならない。
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