日本には、なぜ「名演説」が存在しないのか イェール大学で教えた日本人2人が語る
斉藤:受験生というのは、完全にプライベートプロパティ、私的所有権で、自分の試験の答案は自分にしか帰属しないわけです。それに比べるとアメリカの大学の教室はもっとコミュニタリアンなんですね。みんなで学ぶ。誰かが先生に質問することで、ほかの学生も刺激を受ける。大学も、授業を盛り上げてくれる発言をする人、まわりのいい刺激になる、影響を与える学生を入れようとするんです。
それに比べて試験のペーパーで個人の中に学習の成果が帰属するようなレジームで勉強すると、非常に利己的な学習者になります。そうすると、他者へ説得するスキル、他者の意見を聞き入れるスキルがうまく身に付かないのです。
浜田:学生の議論を聴くことによって、われわれも学ぶんです。
斉藤:そう、先生が学ぶんですよね。
日本人は「自ら問いかける訓練」をすべき!
斉藤:イェールでも先生方が院生の発言から学ぼう、新たなヒントを得ようとしています。日本人には質問する文化がないんですね。ライブでセッションを楽しむという発想がない。人間がそこにいる意味を追求した授業になっていないんです。
研究者の場合は、問いかけられたことに答えるシーンよりも、自ら問いかけて何かをやっていくキャリアのほうが長いわけです。研究でも問いかけの設定はすごく大切ですし、ビジネスでも課題を解決するにはどうしたらいいのかをつねに問いかけて方法を組み立てていくわけです。答える訓練と問いかける訓練、両方同じくらい大切なはずなのに、日本の教育では答える訓練しかしていないように思います。
浜田:研究者になってみて、人の書いたものを理解したり、計算したりということは研究上それほど重要ではないことがわかりました。むしろ、どういう問題を設定し、それをあたためながら最後まで追究できるかです。追究してあらゆる手段を考えてどう達成するかという教育をアメリカで受けました。
そうしたことが、もっと日本の教育でも必要なのかもしれません。
(この記事の後編は7月8日掲載予定です)
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