●立石
・かつては縁日がすごかった。7の付く日は300店くらいの「テキ屋」が店を出した。もともとは植木市だったが、そのうち菓子店が沢山出た。
・血を売ったカネで酒を飲む人がいた。
・大きなキャバレーがあって100人くらいの女性がいたが、キャバレーがなくなったあとは女性たちがみなママさんになって店を開いた。呑んべ横丁の半分以上がそうやってできた店だ。
●北千住
・昔は遊郭があって、明治初期、千住小学校に遊女がおカネを寄付したという記録が残っている。「自分たちは学校に行けなかったから」という理由だった。
●下北沢
・最盛期は210店舗ほどあった。物販も飲食もあって、夜7時から開くおでんやもあった。第2次オイルショックまでは歩けないくらい繁盛していた。暮れになると精肉店の客がずらーっと並んで、入場制限した。隣のピーコックから苦情が来たくらい。
・スリが多かった。洋品店が店じまいしようとすると、洋服の間から財布がたくさん出てきた。くみ取り式のトイレには財布がどれくらいあるかわからないくらいたくさん落ちていた。
・1980年代まではピンクな街だった。南口を降りていくと風俗が軒を並べていた。北口には1階がピンクサロンで2階がロックバーという不思議な空間もあった。本多劇場の本多さんが手広く飲食店をやっていて、地方公務員の初任給が5万6千円の時代に1日で500万円の上がりがあった。
まあ、こんな調子で、今から見ると無法地帯のようだが、それだけに戦後日本の熱気を感じさせる。手塚氏も、横丁というより、この時代の闇市的な熱気が好きなのだろう。ただ、現在の横丁が懐古趣味的なだけでいいとは思っていない。
「昭和レトロ」でひとくくりにされたくない
「でもね、テレビで紹介されると、昭和レトロな横丁でひとくくりにされちゃうんだ。けど、違うんだよね」(手塚氏)
たしかに、手塚氏の手がけたハモニカ横丁内の店舗は全然レトロじゃない。むしろアバンギャルドだ。原宿などのカフェを設計した気鋭の建築家を使って、暗かった横丁の中に現代的な空間を挿入したのだ。
1998年、昼なお暗いハモニカ横丁に真っ白なハモニカキッチンができているのを最初に見たときの私の驚きは、おそらく安藤忠雄の「住吉の長屋」が建築界に与えたインパクトに近い。
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