真理は発見されるのか、発明されるのか? 私の心の中の澱、20年問い続けてきたこと

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心の澱、二十年来の問題

 さて、もう20年近く前になってしまうのですが、私が大学生、あるいはそれ以前から気になっていたことは以下の二点に集約されます。

①「真理は発見されるものなのか、あるいは発明されるものか?」

②「日本とは何か? そして国家とは何か?」

もっとも、当時は、このように整理されてはいませんでした。3、4年ほど前でしょうか、私が長い学生生活を終えて、教員として働くようになってから、ずっと気になっていたことはこの二点にまとめられるのでは、と気付いたのです。

著者撮影:夜桜を見上げて、「真理」に思いを馳せるカナダの夜

前者の「真理は発見されるものなのか、あるいは発明されるものか?」という問いは、哲学の分野で言えば、「認識論」と呼ばれるものに関係しています。

自然科学において「真理」と呼ばれるもの、例えば、「地動説」が「真理」とされるのは、「天動説」と比べて観測される事実をより良く説明できるからであると言われます。

しかし、それは、人間の観測(この場合では天体観測 )から独立に成り立っている「真理」として「発見」されるものなのか? あるいは、人間の観測行為あってこそ 「発明」されるものなのか? その問題がずっと頭の中でもやもやしていました。

「真理」の探究は「共同体」におけるインタラクション?

最近では、私は次のような暫定的な解答に辿り着いています。即ち、もし「真理」なるものがあるとすれば、それは真摯な対話の中に宿り育まれて、そこに「発見」されるものでもあり、また「発明」されるものでもある、と。

「真理」を巡る探求行為を、個人個人の独立な営みとしてではなく、「共同体」におけるインタラクションから生じる営みとして捉えることによって、その本質が見えてくるのではないか。「発見」か「発明」かという二項対立的な問いに真正面から答えず、迂回的に、問いかけそのものを問い直す。

それによって、「真理」、――というより、「真理」に関する人間行為――について、自分なりの捉え方を確立できたのではと思っています 。

なお、「認識論」に関しては、ここ最近では、哲学者の戸田剛文氏の著作『世界について 』(岩波ジュニア新書、2011年) から大きな刺激を受けました。

戸田氏は、世界は「なにか絶対的な事実の集合体ではなく、私たちの信念の複雑に絡み合ったネットワークからできている」(p.143)いう「世界観」を説得的に提示しています。「ジュニア新書」ですので、対象は主に高校生ですが、「大人」が読んでも楽しめ、かつ考えさせられる良書です。

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