未だ答えに辿り着かず、日本と国家を問い続ける
さて、二番目の問い、「日本とは何か? そして国家とは何か?」に関してですが、未だに納得できる解答には辿り着いていません。そもそも国家とは何か?
昨年お亡くなりになった作家の丸谷才一氏。氏は著書『文学のレッスン 』(聞き手・湯川豊。新潮社、2010年、p.44)において、次のように述べています。
ベネディクト・アンダーソンが『想像の共同体 』のなかで、近代の国民国家の成立は、十八世紀にヨーロッパで開花した小説と新聞が大きく寄与している、といってますね。近代小説が近代国家をつくった。
・・・(中略)・・・近代国家というのは共同体ではあるけれど、市町村とか、宮廷とか、劇場のなかみたいな、目に見える共同体ではない。心のなかに浮ぶ、想像力によって成り立つ共同体でしょう。そういうものを作りあげるには何か媒体が必要だった。その媒体が新聞と小説だったんですね。
ノーベル賞受賞者の国籍と、自分の国籍の関係とは?
続いて、文藝評論家・映画評論家としても知られるフランス文学者の蓮實重彦氏は、文藝誌『新潮』2009年1月号(pp.327-8)の「随想」と題するエッセイで、
「近代」とは、しばしば口にされる「個人」の発見などとはおよそ無縁に、人々が自分の「国籍」を意識せずにはいられなくなった一時期と定義さるべきものだということぐらいには、ここで触れておくべきかもしれない。
と述べています。
そもそもノーベル賞の「受賞者と自分とが同じ国籍の場合にはしかるべき興味を示すが、そうでなければニュースとしてはあっさり無視する」(蓮實氏の同エッセイ、p.325)という現象は一体何なのか? 私は、これをどのように考えたらよいか、未だに20年来の模索を続けています。
30年前、40年前、日本にとってまだ「海外」が遠かった頃。外国に渡った少数の選ばれし者たちの「旅行記」は、単なる「海外」というだけで、多くの人々の関心と憧憬とを呼び起こしました。
翻って2013年の現在。世界における日本の相対的地位は、最近ではやや落ち込んでしまったとは言え、向上してきたと言えるでしょう。翻って、国家を中心とする世界構造の基本的枠組みにはあまり変化がないと言えそうです。
私は、私自身の二番目の問いをカナダの地において考え続けたいと思っています。
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