3食同じモノを食べて仕事を切り替える 三池監督が語る仕事のこなし方とは

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ややもすると、名を上げたくなった監督志望の人は「いや、この演出は違うよね」とか「あの監督のこういうところってよくないよね。だからあまり気乗りがしないな」という風になって、邪魔なんですよね。すごく勉強されて、いろいろ映画も好きで、理屈はわかると。話していると「なるほどおもしろい映画になりますね」「そりゃすごいですね」という人が、いざ作ってみると、なんかこんなもんかなというものが出来上がってくるという現実と、ずーっと付き合ってるわけですよね。苦労したからすごいものができるわけでもないという。「あれ?……」っていう。みんなキャリアを積んでくると、プライドだけは出てきて、いろいろ口うるさいわけ。

そうすると、その業界のことにあんまり興味がない人から見れば、映画監督というのは、口うるさいくせに「別に」っていうものしか作れない人と見えちゃう。だから、助監督であたふたやっている俺みたいなやつを捕まえて、「そもそも君には撮れないのか」っていう純粋な投げかけをしてくる。

(c)木内一裕/講談社 (c)2013映画「藁の楯」製作委員会4月26日新宿ピカデリーほか 全国ロードショー

だいたい助監督というのは何でもやらなければならないから、みんなが撮るようなことならだいたい何でもできますからね。スタンドイン(カメラテストのときに、役者の代わりにカメラの前に立つモデル)も助監督が務める場合もあるから、役者のまねだってできる。カメラに映る人の気持ちもわかってきますしね。

自然の無我の境地に入っていく

それと日本の撮影のスケジュールはタイトですからね。1日、2日と経てば、睡眠時間もどっと減ってくる。それが撮影10日目あたりになった日にはもう(笑)。考えることは今しかなくなってくるわけです。

逆に言うと雑念が消えるわけです。将来的に映画監督としてうまくやっていくために、ここはこうしておこう、といったことも余裕があれば考えられるんだと思います。でもそれはきっと映画にとっては邪魔なものですから。雑念でしかない。面白いことに、日本の映画の現場に入ると、誰でもそういう境地になれるんです。スケジュールがそうなんで(笑)。

――自然と無我の境地に入っていくと。

それで後先のことを考えられるような余裕がなくなったときに、何を作っていくのか、何を判断するのかという点で、個性が分かれてくると思うんです。作品の個性は生き方に出てくるわけですよ。どうしても僕らはカメラワークとか、声を出さずにボソボソと言うような芝居とか、音楽の選曲の仕方とか、編集のタッチといった部分を個性だと思う傾向がある。でもそんなのどうでもいいわけですよ。本当の映画の魅力って。

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