「学校の授業で実際の時計作りの現場、日本の時計工場やスイスの高級時計を作っている工場に見学に行く機会があったんですが、どこも最先端の技術を導入しているんです。1台で数千万円もするコンピュータ制御の機械で部品を削り、画像測定器で計って、できあがった部品を人間が少し磨いて組み立てていく。当然、自分には設備をそろえるおカネもないし、部品を手作りしようにも、どう作ればいいのかまったく想像ができなかったんですよ。時計のことを知れば知るほど、独立時計師になるのはかなりハードルが高い、だから日本人がひとりもいないんだと納得しました」
最終学年になると、周囲は就職活動を始めた。独立時計師への道が非現実的に思えた菊野も、セイコーやロレックスなどいくつかの時計メーカーのサービスセンターの説明会に参加した。しかしあまり気が進まず、就職活動をしなかった。もしこの時、どこかの会社に就職していれば、今も修理士として働いていたかもしれない。これからどうしようかと途方に暮れていた。
そこで手を差し伸べたのは、学校の教師たちだった。入学時に「独立時計師になりたい」と宣言し、誰も教えてくれる人がいない環境で、3年間、時計のケースを作ったり、部品を改造したりとひとりで試行錯誤を重ねる姿を見ていた教師たちが、「1年間、研究生として学校に残って、何かにチャレンジしたら?」と提案したのである。
進路が決まらないまま卒業間際になっていた菊野は渡りに船でその話に乗り、25歳の春、研究生となった。
研修生から講師に抜擢
ちょうど同じ頃、テレビで1851年、江戸時代に作られた和時計の中でも最高傑作と称される「万年時計」を分解し、当時の人がどうやって時計を作ったのかを分析するドキュメンタリー番組を見る機会があった。
この番組が、菊野の人生の針を進める。
「1枚の歯車が紹介されていたんですが、当時の人は歯の部分をやすりで削って作っていたという映像を見て、コンピュータも機械もない時代に、情熱だけで作ったのか、それだったら自分でもできるんじゃないかと思えたんです。江戸時代の人が手作業で時計を作っているのに、現代に生きる僕が、環境が整ってないというのは言い訳にならない、時計は作り得るものだと思うようになりました」
今も上野の国立科学博物館に展示されているこの万年時計を作ったのは、後に大砲、蒸気船、蒸気機関車などを次々と生み出した東芝の創業者、田中久重だった。田中の手仕事に触発された菊野は、学校にあったイギリス人独立時計師の著書『Watchmaking』を手に取り、辞書を引きながら時計作りに着手した。
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