学校の地下室で製作に没頭して2カ月。ついに、オリジナルの時計が完成した。既存の時計のムーブメントの上に、太陽をモチーフにした自作の表示機構を載せたもので、針が扇状に動く「レトログラード」という仕組みの時計だった。菊野が実際にデザインし、手作りしたのは表示機構だけだったが、計算通りに針が動く様子を見て、「自分にも時計が作れるんだ」と大きな自信を得た。
この作品が、再び学校を動かした。
同校初の時計製作を教える講師として、菊野にオファーを出したのだ。まともに就職活動しなかった落ちこぼれが、1年後、教壇に立つ。誰も予想できなかったであろう、大逆転の瞬間だった。
独特の仕組みを持つ和時計
2009年4月、研究生から講師に抜擢された菊野は、給料を得ながら時計作りに集中できる環境を得て、今度はさらなる難題、江戸時代に作られた和時計の仕組みを導入した腕時計の開発にとりかかった。
主に1600年代初頭から明治の初頭まで作られていた和時計と現代の時計を比較すると、同じ時計でも構造は大きく異なる。
和時計は時計盤の上半分が昼、下半分が夜にあたり、十二支が1日の時刻を表す。西洋時計の12の位置にくるのが「午(うま)」で、以降、時計回りで羊、申、酉、戌……と続いていく。「刻(とき)」が現在の「時(じ)」に当たり、よく昔話の怪談で出てくる「丑の刻」は、子(ね)の次なので午前2時前後となる。
西洋時計との一番の違いは、日の出と日没を基準にしていることだ。西洋時計は24時間を等間隔で分けているが、和時計は日の出と日没に合わせて文字盤の目盛りを動かして、「一刻」の長さを変える。例えば、夏のように日の出が早く、日没が遅い季節は、文字盤の下半分、「夜」を表す面積が小さくなる。
当時、目盛りは2週間ごとに手動で合わせていたが、田中久重の万年時計は、複雑な機構によって、この動きを自動化した革命的な和時計といえる。
ちなみに、和時計はすべて置き時計だが、菊野が目指したのは、立体的な構造を腕時計の中に組み込み、さらに十二支の動きを万年時計のように自動で表現する腕時計だった。
想像するだけで難解で、菊野も当然のように頭を悩ませていたが、講師になって2年目の2010年に、この壁を突破する。
「田中久重の万年時計は立体的な歯車のかみ合い方をしていて、腕時計の空間には入れられない構造でした。それでどうしようかとネットで和時計を検索していたら、和時計を分解して解説している論文を見つけたんです。その論文に載っていた和時計は、万年時計とは別の仕組みで十二支の動きを自動調整していた。これも置き時計だったのですが、論文を見た瞬間に、これだったら小さく作り直せば腕時計に入れられる! と直感しました」
目の前の霧がパッと晴れたように感じた菊野は、開発に熱中。3カ月後、干支が書かれた12個の駒が季節の変化に伴って自動的に移動する「自動割駒式和時計」が完成した。
(後編に続く)
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