プレイボーイと称される彼らが持つ本質 カッコイイお金持ちがいた時代があった
「都会」を辞書でひけば、文化的・娯楽的施設に富み、消費生活に適する条件を備えている大都市、とある。六本木、ひいては東京を都会たらしめたのは、60年代の遊び人たちだったといえるだろう。アルファ・キュービックの創始者であり、イブ・サンローランを日本ではじめて展開した柴田さんも、そんな一人だ。
「なにをやっても、新しかった。とにかく楽しかったですよ」
クルマもまだ庶民のものでなく、最先端を楽しめる一部の人たちだけのアイテムだった。だから、あの頃のプレイボーイたちにはレーサーが多い。なかでも、トヨタのレーシングドライバーだった福澤幸雄は特別な存在だった。福澤諭吉を祖父に持ち、ギリシャ人とのハーフである彼の名前は、あの時代の東京の象徴といっていいだろう。柴田さんはいう。
「スーパーマンに近かったですね。とにかくかっこよかった。ハンサムだし、おしゃれだし、英語もフランス語もペラペラだし。黒いワーゲンに乗っていて、その後は赤いジャガーマーク2でした」
福澤氏にはデザイナーという顔もあった。当時、日本にはVAN、JUN、エドワーズというメンズの三大ブランドがあった。アイビーのVAN、モードのJUNに対して、エドワーズはヨーロピアン・テイスト。その中で、もっともエッジのきいた「ボージェスト」というラインを手掛けていたのが福澤幸雄である。
プレイボーイとは、単なる遊び慣れた男を指すのではない。自分の興味&趣味が過分にあり、それがセンスや生活様式に染み込み、染み込んだエッセンスが職業と結びついた挙げ句、仕事がその人自身の本質を表している、そういう人たちのことだ。少なくとも、あの頃は。
福澤氏は、柴田さんや内田裕也さんたちと朝まで夜通しポーカーを楽しんだ後、テストコースに出掛け、その翌日、事故で亡くなった。享年25だった。
東京ボーリングセンター
彼らは、飯倉キャンティ以外はどんな店に溜まり、どんなふうに遊んでいたのだろうか。
「青山にあった東京ボーリングセンターが僕らの社交場でした。そこにおしゃれをして集まって、ボウリングシャツに着替えるわけです。もちろん、マイボールを持って。ディスコやバーとも違うし、独特な雰囲気でしたね。今ではああいうの、どこに行っても味わえないんじゃないかな」