プレイボーイと称される彼らが持つ本質 カッコイイお金持ちがいた時代があった

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ボウリング場にクルマで乗りつけ、プレイした後は茅ヶ崎のパシフィックホテルにライヴを見に行くのが定番のコースだった。東京オリンピック前の日本に、高速道路はまだない。青山から茅ヶ崎まで、いわく「めちゃくちゃ飛ばしていっても」片道2時間はかかったという。

お目当ては、デ・スーナーズというフィリピンのジャズバンドである。香港のナイト・クラブで演奏したところを同ホテルの共同オーナーである加山雄三の妹夫妻の目にとまり、ホテル専属となった。

今もなお、語り継がれる赤坂のディスコ、MUGEN(ムゲン)とビブロスが開業したのは、1968年だった。

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来日時のセルジュ・ゲンズブールとジェーン・バーキン。1970年にレノマのイベントのために来日し、キャステル東京で大掛かりなパーティが催された

「僕が、はじめてセルジュ・ゲンズブールを見かけたのはMUGENでしたね。確か、狭いところで出くわしたんだっけ」

柴田さんは淡々と話す。あのゲンズブールを「見かける」ことがあるのか、というのが正直な感想だ。

その直後、柴田さんは、パリのレノマというブランドを日本で展開することになった。かといって、レノマはよくある仕立屋で売るための商品はないに等しかった。そこで、もっともパリを体現したカップルであるゲンズブールとジェーン・バーキンを被写体に写真を撮らせ、何も売らずに3年間ただただ宣伝だけを行った。イメージを売った。写真家はデイビッド・ベイリー、ヘルムート・二ュートン、ギィ・ブルダンという豪華な顔ぶれ。世間が「レノマって、いったいなんだ?」とざわつき始めたタイミングで、商品を発表。爆発的に売れたのだった。

生意気盛りの高校生だった頃の私も飛びついた一人である。バケツ型のバッグをはじめ、セカンドバッグや小物入れまで、茶色のレザーのレノマで揃えた。西海岸テイストのアメリカものに飽きていた時で、レノマにまとわりついていた、なんとなく、なパリの空気に夢中になった。

マキシム・ド・パリ銀座

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1966年に銀座のソニービルのB1Fにオープンした「マキシム・ド・パリ銀座」。壁に描かれたロートレック風の模写は、今井俊満によるもの。ギャランティは300万円とも言われている

レノマの撮影は、日本とフランスで行われた。デイビッド・ベイリーはよく来日し、開業したばかりのマキシム・ド・パリ銀座でもふたりを撮った。同店をプロデュースしたのは、キャンティを手掛けた川添浩史氏。パリのマキシムにはロートレックの原画が壁にかかっていたので、銀座ではキャンティの常連だった若き日の今井俊満(写真9)がロートレックを模写したものが飾られた。開店から50年後の2015年、マキシム・ド・パリ銀座は閉店した。

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