米倉:同じ頃、僕の兄が他社の開発部門で作ったものが特許を取りました。言語変換のブラウザに関する特許で、当時iモードが出たてで、各社の考え方でコンパクトHTMLと、HDML、WML、合計3つの言語を用意しなければいけない時代でした。書き換える作業がしんどかったのを、自動的に別の言語に変換する特許を取ったんです。
塩野:お兄さん、それは素晴らしいですね。
兄の作った革新的な「特許技術」とは
米倉:僕と一緒に暮らしていたので、彼が「新しいアイデアがある。面白いものができるよ」と聞いていました。それがパケット料金を自動的に削減するシステムで。ブラウザ通信で、データ量が多いので、言語変換する時に言語データを小さくすればパケット量削減できるだろうという技術でした。
塩野:圧縮技術があったということですか? いまとなっては当たり前ですが、当時は画期的なアイデアですね。
米倉:「アイデアはあるけれど、コンテンツをどこで出そうか?」となり、メディアドゥの社長さんが、「売ってみたらどう?」と。結局、特許になって、コンテンツ自体を事業化しようとなった。それが爆発的にヒットしまして。
塩野:それはなんて言うコンテンツだったんですか?
米倉:「パケ割」というヤツですね。
塩野:ああ! 「パケ割」はお兄さんから生まれたんですね。お兄さんは文系ですか?
米倉:兄貴も完全に文系です。
塩野:1999年から2000年くらいのネット過渡期な感じで、ワクワクしますね。あの時は理系に限らずやりたい人が活躍していましたからね。
米倉:完全に遊び感覚でした。当時の機運はユーザー側も新しいものへの食いつきがすごい時代でした。
塩野:どんどん新しくなっていくような空気感がありましたよね。
米倉:クリエイターとして感じていたのは、北米の真似をするという意識がゼロだったこと。北米で売れているものを入れれば成功するんじゃないかというものが僕らにはなくて、NTTドコモさんの存在感がすごかったんです。
塩野:最初に携帯電話をインターネットにつなげた功績ですよね。
米倉:ドコモさんの考えもグローバルでとんがっていて、クリエイターとしても安心感がありました。
塩野:プラットフォームとしての安心感があったわけですね。
米倉:そうです。その戦略に乗った中でキラーコンテンツを作ればいいということに集中できていた良い時代でした。当時は数少ない100万ユーザーを超えているコンテンツでしたので。
塩野:それはすごい数字ですね。他に100万ユーザーなんてないですね。
米倉:正直な話、当時はヤフーさんの携帯の検索エンジンよりも有力なコンテンツでした。で、メディアドゥもIPOを目指すことになり、僕がその事業責任者で、役員になって、その時はIT事業部と呼んでいましたが。
塩野:その呼び方はいまやヘルプデスクみたいな部署になっていますけれど。
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